第十三話
帰宅した絵里は、夕飯の支度をしながら新婚当時の出来事を思い出していた。
結婚と同時に夫の実家で義母と同居する事になった絵里が、少しずつ運び込んでいた自分の荷物を整理している時だった。
夫の部屋が広かった為、夫婦の寝室として使う事になり挙式後夫の部屋を片付けていると、本棚の本と本の隙間から写真を見つけたのだ。
その写真には、夫と一緒に色白の華奢な感じの女が写っていた。二人の写真を見ると夫が女の背中に腕を回しており、夫の懐にすっぽりと入りそうなバランスだったか事から小柄な女だと分かった。夫は183cm、68kgと、細身で長身だ。その頃も今もほとんど変わっていない。そんな夫に抱き寄せられている女の姿は背丈こそ差はあっても妙に雰囲気が合っており、加えて幸せそうな夫の笑顔に絵里は衝撃を受けた。
しばし見つめた後、我に返った絵里は腹の底から煮えたぎるような嫉妬を覚えた。自分と夫が並んで写した写真には無い、調和のとれた雰囲気を醸し出す写真の女は、背景に大観覧車が写っていたところか夫が横浜にいた頃の恋人と直感した。
写真を破り捨てたい衝動にかられつつ、絵里はその写真を寝室のパソコンのキーボードの上に置いた。その日帰宅した夫がどんな顔をするだろう…絵里は夫の帰りを待っていた。
帰宅した夫に家中ついて歩いたものの、夫はなかなか絵里の前で寝室のパソコンに近づこうとしなかった。諦めた絵里が風呂に入り寝室へ戻ると、確かに昼間置いたはずの写真が、キーボードの上から消えていた。
絵里は、自分の入浴中に夫が気づき、隠した思いつつも敢えて沈黙することにした。が、夫はの様子は全く変わらず、気づいていない様に見えるほどだった。絵里はしばらくの間夫の様子を観察していたが、数日経った頃、しびれをきらし思わず切り出した。
「あの人、誰?」
「…何が?」
夫は何食わぬ顔で答えた。
「何がって…とぼけちゃって…綺麗な人ね」
絵里は、さらりと冷やかすように言ってみた。
「……」
そんな絵里の言葉に夫は知らぬ顔で黙ったままだった。
「…昔の彼女?」
「…」
「ねぇ」
分かっているはずなのに…絵里は黙り込む夫に業を煮やすと瞳を見つめ、腕を揺すりながらしなだれかかるように訊いた。
「しつこい」
夫は無表情の淡々とした調子で言った。夫のその言葉に一瞬黙り込んだ絵里は
「……教えてよ。わたしたち、夫婦でしょ?」
夫の目を睨むように見据えると、暗示をかけるような低い声で続けた。
「…誰だって一つや二つ恋愛くらいしてるわ。…それを、隠さないでほしいの…」
黙りを決め込み口を固く閉ざしたままの夫に催眠術をかけるように言った。が、夫は頑として答えない。
「……どんな人なの?」
絵里はやや甘えるような口調に変わると懇願するようにしなを作り聞いた。しばらく見つめ合いながら尚も口を閉ざす夫に今度は怒気を含んだ低い声で呟いた。
「教えて」
夫の顔を両手で挟むと目を見つめたまま絵里は訊く。夫は抵抗をしない代わりに答えようともしなかった。
「ねぇ…お、し、え、てっ」
段々意地になった絵里の口調はまるで命令のようだった。
容易に話さない夫の様子に、写真の女に未練があるのではないか…絵里はそう感じた。新婚間もない妻に話せない過去があるという事が絵里には許せない。絵里はどうしても白状させたかった。まるで、そうすることが絵里への愛の証とでも言うように夫に迫った。絵里は、写真の女の思い出を共有する事で今は自分が愛されているのだと感じたかったのだ。
硬軟取り混ぜて聞きだそうとする絵里に呆れたようにため息をついた夫は、腕に絡みついた絵里の手をふりほどきながら
「……昔、付き合ってたんだよ」
渋々答えた。
「いつ?」
「……結婚する前」
手を振り払われながらも食い下がる絵里の視線を避けるように、夫は無表情のまま答えた。
「…横浜に居た頃の?」
「そ」
淡々と返す夫の言葉に
「…なんでその人の写真が出てくるの?」
絵里は軽く睨みつけたまま嫉妬心を隠そうとしなかった。
「……栞がわりだよ」
絵里には言い訳に聞こえた。思わず
「栞ね……どんな人?」
絵里は薄笑いを浮かべると皮肉っぽく言った。
「しつこいな 忘れた」
夫は、再び顔を近づけ瞳を覗き込みながら尋ねる絵里の額のあたりを見たまま黙り込んだ。
「何やってた人?」
「…」
「答えて!」
苛々した声で絵里が言うと
「………デパートの販促」
夫はぼそりと答えた。
「へー …名前は?」
「……沙織」
「…どんなところが好きだったの?」
「…」
「私を見て!」
ずっと額を見たままの夫に苛立った絵里は命じるように言った。至近距離で見つめ続ける絵里の目を見ようとしない事が絵里には気に入らない。絵里は身を乗り出すと夫の顔を両手に挟んで見つめた。
「…綺麗な人よね……どんな人?」
「…写真、見たんだろ?」
夫は不承不承応じ絵里の瞳を見るが、その声はややムッとしていた。
「顔じゃなくてっ 性格とか…写真じゃ分からない事が知りたいの。どんな人?」
支配的で攻撃的な絵里の様子にされるがままになりながら、夫が心から絵里に従っていないのを感じ取とると増々追い詰めるような強圧的な態度で尋ねた。
「………背が小さくて、色が白くて、目がぱっちりしてて、唇がふっくらしてて、ウエストが細くて、乳首がピンクで」
夫は畳みかけるように言い始めると途中まで聞いた絵里は思わず大きな声で遮った。
「わかった!!!」
ようやく絵里は夫から体を離すと、静かな声で繰り返した。
「いい。…分かったわ」
夫はそんな絵里をジッと見つめると
「訊いたっていい事ないだろ」
顔色一つ変えないまま、相も変わらず淡々とした口調で言い放った。
「写真、捨てて頂戴」
絵里は、夫を睨むように低い声で命じると
「………分かったよ」
夫も負けじと絵里を睨みつけ一言で応じ、ベッドから起き上がって階下へ行ってしまった。
以来、夫の留守中や入浴中にスーツのポケットや携帯、ブリーフケースなどをチェックしてみたが写真は見あたらず、メールなどにも女の気配は感じられなかった。
望美の言う「色白で華奢な感じ」とはあんな感じなのだろうか…かつて夫が愛していた女は、自分とはタイプが違う事を思い出すと、出会いの時から夫が絵里に関心を示さなかった理由がなんとなく納得出来た。
が、結婚まで持ち込んだ自分は誰よりも愛されているのだ…絵里は長年そう思ってきた。そんな絵里の自信を覆すような望美の目撃談は、絵里に新たな不安をもたらしていた。