第十話
これまで日常の雑事に追われ、深く考える事もなかった夫の行動を不信というフィルターを通して見始めると、猜疑心が止めようもないほどに大きく膨らんでいくのを感じた。
この数年、夫の態度に引っかかりを覚える瞬間はあった。
時々外泊すると
「徹夜だよ。帰るのがかったるくなって会社のソファーで仮眠を取ったんだ」
尤もらしい理由を述べるが、仕事を家に持ち帰ることだって出来るはずだ。
絵里が
「家でやれば?」
夫に仕事を家でするよう促しても
「イヤだよ」
キッパリと拒否をする。夫が家に帰ってまで仕事をしたくないと言うのを聞くと、絵里もなんとなく納得していた。
しかし、時に
「朝まで飲んでいたんだ」
そう説明する夫の様子にその名残はなかった。その割に酒の臭いがしない事を絵里は不思議に思った。いくら酒に強くても、帰宅して二〜三時間後に出勤するのならもう少し酒が残っていそうなものだと思う。が、そこで夫の浮気を疑う絵里を
「あるわけないだろ。どこでそんな人に出会うんだ?」
夫は呆れたように絵里に訊き返した。
「飲み屋さんとか、行くでしょ?」
「俺がホステスと浮気してるって事?」
「とかね」
探るように尋ねる絵里の顔をまじまじと見つめながら冷めた声音で
「ホステスね…まぁ、可能性が無いわけではないよな」
絵里にヤキモチを焼かせるようとしているのか、もったいぶった調子で意地悪に言った。本気とも冗談ともつかないが、こんな時は大抵絵里の指摘が的を射ておらず、馬鹿にしているのだと感じた絵里が訊いた。
「じゃ、会社の人?」
「会社に誰がいるの?」
「女の人」
「女の人はいるよ。関尾さんとか芦塚さんとか…」
夫の口から出てくる名前は絵里も馴染みの古参の女性社員ばかりだった。絵里は会社を辞めて七年以上経っている。その間、夫の仕事や会社について一切関知してこなかった事から現在の状況は分からないが、増員できるほど経営が潤沢ではないと聞いていた。その為、絵里にも容易になびかなかった夫が人の出入りの少ない社内で不倫をするとは考えにくい。そんな夫の口ぶりから、以前と同じメンバーで切り盛りしてるのだろうと絵里は思いこんだのだった。
「はいはい。分かりました」
暖簾に腕押しの返答しかしない夫に絡んだところで不毛な押し問答が続くだけだった。結局、夫から「突飛だ」と非難されると絵里はつい『考えすぎかも』と、思ってしまうのだ。忙しいといっても所詮は家と会社の往復だ。そうそう出会いがあるとは思えない。
なんだかんだ言いつつも絵里は夫を信じてきたのだ。不貞について真剣に考えたことはなく、また、それで上手くいっていた。
だが、望美から思いがけずもたらされた女を同伴していたという夫の目撃情報によって、これまで意識の底に沈めてきた夫の浮気、という疑念は、実は以前から絵里の心の片隅に絶えず巣くっていたのだと気がつき始めていた。
その事を絵里が認めた今、これまでのように鷹揚に構えていていいのだろうか…絵里は気が重たくなった。こんな気持ちになるのはイヤと、深く考えないようにしてきたのに…絵里は、今までのように『気のせい』とやり過ごせない自分に苛立っていた。
夫に拒まれた翌朝、悶々としながらこども達のお弁当を詰めた終えた絵里の目に、白とグリーンのグラデーションのカーテンが飛び込んできた。カーテンでも替えれば気分も変わるかしら…絵里はぼんやりと考えながら、お弁当を雄太と颯太それぞれの通園鞄にしまっていた。
「ママ、折り紙」
通園鞄の中身をチェックしている絵里に突然、雄太が言った。
「今日、折り紙持って行くんだよ」
思わず絵里の手が止まった。初めて聞く話だった。
「なんでもっと早く言わないのよっ」
絵里は思わず苛々した声で怒った。朝になり、これから幼稚園に行こうという段になって折り紙を持って行かなければならないと言い出されても用意の無い絵里は戸惑ってしまう。
「言ったよ!」
雄太は反論した。
「聞いていわよっ」
「言ったもんっ」
雄太は泣きそうな顔で抗議をする。
「もう…こども相手にムキになって…絵里さんが聞きそびれたんじゃないの? どこかで買っていけばいいじゃない」
見かねた義母が口を挟んだ。夫は今朝もいつもと変わらない様子で既に出勤した後だった。義母は何かにつけて口を出すが、絵里はそれが煩わしくて仕方ない。義母の言ってることは尤もで絵里も承知している事なのだ。それをいちいち指摘されるとそれだけで癇にさわってしまう。絵里は朝から義母に反論するのは良くないと、無理矢理に溜飲を下げ、内心の苛々を隠すようにこども部屋を探したが、やはり買い置きはなかった。
仕方なく幼稚園に向かう途中のコンビニで雄太に持たせる折り紙を調達すると、急いで幼稚園に車を走らせた。
いつもよりやや遅い時間に幼稚園へ着いた絵里は、徒歩で子供を送りに来ていた望美に出くわすと
「珍しい…いつももっと早いんじゃない?」
明るく絵里に声をかけた。
「そうなんだけどね、今朝、ちょっと寄り道したから…」
絵里は今朝の出来事を手短に話した。絵里は自分がいつもと同じ顔をしているつもりだったが、不意に望美から
「折り紙ね…だからかな。…ちょっと眉間がコイル状」
望美は冗談めかして眉間に皺を寄せてみせた。望美は目敏い。今朝の折り紙のことは大きな問題ではないが、この数日来、夫の素行について疑いが芽生えていた絵里の心は晴れやかなものではなかった。
「……この間、颯太がひきつけ起こしたの…慌てちゃって」
そんな胸の内を悟られまいと取り繕うように颯太の事を持ち出した。
「…病院は?」
「行かなかった。大丈夫と思って…」
昨日は挨拶程度に別れた望美に颯太がひきつけを起こしたと、この日初めて話した絵里は、先日望美と車内で話した時の光景が蘇った。
「うちも一番上の子がひきつけおこしたことあったけど、びっくりするよね」
そんな絵里に気づかないのか望美は屈託のない様子で言った。二人はこんな話を始めると長くなる事も珍しくない。
「ねぇ、今日、ランチ行かない?」
時間を作った方が義母にも言い訳がし易いと、絵里が望美を誘った。先日の目撃談についても更に詳しく聞いてみたい衝動に駆られたのだ。
「ランチ? ……そうね…いいけど」
望美は二つ返事で応じると、昼に長崎の駅ビルで落ち合う事にして別れた。