神に問いたい。亀の最長って何メートルだ?
眠りの闇から次第に意識が復活をはじめ、体の感覚が戻ってくる。
閉じられた瞼をゆっくり開いた。
どこからかトントンと聞こえる。
寝起きの妙な虚脱感を経て、活発でない脳が軽快な打撃音を無意識に探させた。
音は止まることなく響き続ける。
音源は前方からするようで、静かな鼻唄も聞こえてくる。
そのとき、脳が瞬時に覚醒した。
既視感を覚えながら情景から得られる情報を一つずつ整理した。
台所に立って、やけに笑顔で、鼻唄とともに手際よく移動して、エプロンを装着して料理をしている黒髪の女性__。
「クリナさん!」
「ひゃぁっ! お、おどかさないでよ、危うく熱々のスープを溢しそうになったわよ」
短兵急な俺の叫びに、甲高くお化けに驚く少女みたいな声を出した。
見た目に似合わず可愛い声出すんだな、という思念を、ブンブン首を横に振り払拭した。
「クリナさん、朝早いんですね」
「早いも何も、どれくらい寝たのかわかりませんからねぇ」
そう語りながら木製の深皿を両手に運んできた。
それを俺の前と向かいの席の前に置く。
深皿に入っているのは、湯気をもくもく立てる熱々のスープだ。煮込まれた具材はどれも美味しそうだ。
「クリナさん、この具はなんですか?」
今、向かいに腰掛けようとしたクリナさんに借問する。
躊躇うことなく答えてくれた。
「深緑がワカメで小粒のやつは動物プランクトン。栄養たっぷりなのよ」
「なにぃ!」
俺は口を開けたまま幾度も瞬きを繰り返す。
プ・ラ・ン・ク・ト・ン?
詳しいことは知らないが、確かプランクトンって小魚が食べるというあの__。
「むう、食べたくないっていうの? せっかく作ったのに」
むくれるクリナさんを、正気の失せかけた目で眺めやる。
しかし、すぐにハッとして首を傾げた。
おかしいぞ。プランクトンは人間の視力では姿を視認できないはずだ。
だが、このスープに浮かんでいる粒ははっきりと見えている。
その理由は俺が質問するより先にクリナさんの口から出てきた。
「加工食品なんだよプランクトンって。生の状態より何百倍も膨らませて私達の元に売られるんだって」
視認できる理由を知って一つの疑問は解決した。だがしかし、プランクトンはプランクトンということには変わりない。
目の前のクリナさんはパクパク食べてるけど__害はないのかな?
「早く食べないと冷めちゃうよ。不味そうっていうなら無理しなくて……」
悲しそうに両眉を下げるクリナさん。
「そんな顔しないで、食べるから!」
そんな顔をされては食べるしかない、と深皿の横に置かれた木製のスプーンを手に取り湯気の立つ量が減ってきているスープに突っ込んだ。
そして、そのまま掬い口に運んだ。
__美味しい!
「クリナさん、このスープ美味しいです。プランクトンもプチプチしててイクラみたい」
俺の表情が嬉しく一変したのを見て、クリナさんはパァッと晴れやかに笑う。
「でしょでしょ! これで今日から、シュン君お仕事に励めるね」
「え? お仕事?」
予想だにしなかった単語を聞き取り、素っ頓狂な声が俺の口から漏れる。
それなのにクリナさんは驚かず、平然と話を始める。
「シュン君のお仕事は姫候補達と一緒に暮らして、最終的に一人選ぶこと。ガンバレシュン君!」
と最後には可愛く脇をきゅっと締めて俺を励ます。
励まされて何を返事すればいいかわからず、苦笑いを口元に作った。
クリナさんは尚も元気よく話を続ける。
「私、マリ姫と幼なじみなのよ。だからマリ姫の下でお仕事してるんだぁ」
「マリ姫って誰ですか?」
またも知らぬ単語の登場に、尋ねざるを得ない。
そんな無知な俺にウザそうな顔を一切見せずに、クリナさんは説明してくれる。
「次期姫候補の一人よ。姫候補は五人いるんだけど……」
突然、口を止めた。
そして悪戯っぽく微笑み、
「今は言わないでおこっーと」
と、説明をやめてしまった。
気になるじゃないですか、と腰浮かせて俺が詰め寄る。すると人指し指を立ててめっと目を怒らせ、子供に注意するお母さんみたいに忠告してくる。
「このあとすぐにお出かけなんですから、早く食べないとダメでしょう!」
「す、すいません」
母親然としたクリナさんの迫力に、俺はすごすごと浮かせていた腰を戻した。
会話をやめ黙々とスープを口に運ぶ俺は、目だけ動かして笑顔のクリナさんを上目遣いに一瞥した。
「言うこと聞けてよろしい!」
やけに嬉しそうだった。
食事を済ませ、着替えてきた白のワンピース姿のクリナさんと連れ立って、俺が昨日探し回って見つからなかった出口は反対側にあり、そこから外に出た。
木造の家の外に出ると、記憶にない風景が目に飛び込んできた。
幅のある砂道を挟んで向かい側に同じ造りの木目の露になった寄棟屋根の高床式住居が繋がらんばかりに横一列に軒を連ねている。
入り口となっていると見受けられる屋根付きバルコニーと、その下の砂道に渡す数段ある階段を、ポカーンとしている俺を気にせず、事も無げにクリナさんは降りていく。
「早くしないとおいてっちゃうよ」
と悪戯っぽく言われて、待ってくださいよと後ろ姿を追う。
クリナさんは降りるとすぐに、右方向を見て右手を掲げた。
その姿はヒッチハイク同然だ。
あと三段となった階段を、ジャンプでとばしてクリナさんの傍に着地する。そして右手を掲げたまま動かないクリナさんに話しかける。
「どうかしたんですか?」
「あれ……来ないな、あ、来た!」
クリナさんの見ている方向の奥から、砂埃を撒き散らしながら真っ直ぐな道を、路傍に建ち並ぶ高床式住居の屋根ぐらいまでの高さがある四足歩行の生物が、短い足を器用に動かして突進する勢いでこちらに向かってきている姿を目に捉えた。
俺は反射的な行動を取っていた。
「クリナさん、危ない!」
「えっ?」
何事もないような表情をしてクリナさんは顔だけ俺に向けた。
俺はクリナさんを庇うように、道に背中を向けて抱擁した。
背後からザアッーという砂と物が擦れ合う音が聞こえた。
音の後、俺は背面全体に砂埃を被った。
「お二人さん、朝からお熱いねぇ」
不意に渋めの声が背後から聞こえる。
お二人さん? お熱い?
最初、声の主の言っていることの意味が掴めなかった。
何か温かく柔らかい物と密接しているような気がして、視線を下にやった。
黒くなめらかな髪に覆われた頭が、目下にあって思わず、
「うわぁぁぁぁぁ!」
と、遠慮のない叫びを轟かせた
俺はばっと接触を避けるように、一歩後退する。
「シュン君……これはどういう……」
理由を求めるような目をして、頬を赤らめ両手を恥ずかしそうに胸に当てているクリナさんに、俺は動揺で両手をブンブン振って供述した。
「こここれは、ええと……意味とかは特に無くて……で、でも理由はありますよ!」
ま、まずい。こういうときなんて言えばいいか、全くわからない!
俺が言葉に窮していると、恥じらいを含んだ目をしてクリナさんは口を開いた。
「意味がないのなら無闇に抱きつかないでください。は、恥ずかしいですから……」
「……すいません」
視線を合わせたり逸らしたりを繰り返して言うクリナさんに、ばつ悪く謝る。
このまま居心地の悪いムードになると思ったが、それを掻き消すように俺の背後から急かすような言葉が聞こえた。
「お二人さん、イチャイチャするのは構わんけど仕事の妨害は勘弁してくれよー。乗るなら、はよ乗りな」
「ごめんなさい。すぐに乗ります」
そう言ってクリナさんは黒髪を揺らしながら俺の横を通り過ぎた。
「シュン君も早く」
「うおわっ!」
突然、右手首を掴まれ引っ張られる。
振り返って、何がどうなっているのか認識しようとした。
急ぐ様子で俺を引っ張るクリナさんと、その後ろにライムグリーンの体の上に深緑の甲羅を載せた巨大な亀が、俺の身長くらいあるであろう顔を首を伸ばして向けていた。
迫力に富む大亀は、不可解の皺を眉間に刻む。
「見たことねぇ顔だな」
「まぁ……初対面ですから……」
たじろぎながら俺は大亀に言葉を返した。
睨まれる俺のもとに、引っ張るのをやめたクリナさんが助け船が出す。
「シュン君は怪しい人じゃありませんよ。とても優しい、いい子です。噂で持ちきりの有名人ですよ」
「ちゅーことはあんたが、次の。ほうほうそれなら見たことないはずだ」
噂とはなんのことやら知らないが、とにかく俺は有名人らしい。
大亀の眉間から皺がなくなり、代わって興味津々といった様子で顔を近づけてきた。
そしてかかか、と笑って続けた。
「行くとこはどこだい?」
「城の前までお願いします」
大亀の尋問に間髪入れず、クリナさんは即答した。
それを聞くなり大亀は俺の頭上に顔を移動させて、口でジャージの後ろ襟をくわえて俺を持ち上げた。
「ななななんだぁ?」
「ほら、乗れぃ」
俺をくわえたままハニカム構造の甲羅の中心に丁寧に乗せる。
続いてクリナさんも俺の隣に乗せると大亀は、一本道になっている前方を睨みいくぜ、とクールに短く出発の合図を口にしてから走り出した。