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包丁は鞄の衣を纏うと、野菜を切るという日常の可能性を喪失し、忽ち殺意の形相を露わにした。鞄そのものに殺意を炙り出す魔力が秘められているのではない。鞄の衣を纏った財布は相変わらず日常の形相を保つ。財布と鞄の遭遇が一般的なものだからだ。一方、包丁に内包されている殺意の可能性が立ち現れるのは、鞄と包丁の遭遇そのものに殺意を炙り出す魔力が込められている。すなわち、触媒として働くのは、事物ではなく事物との遭遇にある。ならば、そこにある体温計や、植物性のオイルといった一切合切に殺意の可能性が潜んでいる可能性を意味する。私は、その可能性を幾度となく探ってきたから、選択肢はいくらでも考え付いたつもりだったのだが、いざ実行の段階に移すとなると、大半の可能性は頭の中の劇場でしか発揮されない可能性であり、確実性や瞬発性といった現実の前では私の積み上げた知識や妄想など空虚なものでしかなかったことが判明した。結局、私の趣向との妥協点は、比較的わかりやすく殺意の形相を見せる包丁という選択肢に落ち着いたのである。この生を賭けた作戦に妥協をするとは可笑しい気もしたが、世間一般でいわれる快楽殺人者程度の狂気を持ち合わせていないような私には妥当である気もした。それに、私の求めているのは過程というより結果である。すなわち、私は死体を欲していた。
三カ月ぐらい前のことである。私が会社から家に帰る途中の夜道で一人の女子高生とすれ違った。顔は暗くてよく見えなかったが、街灯に照らされた直線的な黒髪や、油の分泌量の少なそうな鼻から頬にかけての肌は、彼女の端正な顔だちを予想するには十分な情報であった。冷涼感のある紺碧の制服を纏った姿は、一切の湿気の侵入を許さなかった。私は彼女の死体が欲しくなった。あえて、比喩で表現するならば彼女は行燈の光である。底なしの美しさを放つ女子は、その眩しさ故で周囲の闇を抹殺してしまう。それはエジソンの白熱灯である。それはそれで魅力的と言えばそのとおりなのであるが、白熱灯はその寿命を迎えるとき、不快な鈍い破裂音と、激しい点滅を繰り返した末に漸く消える。挙句に、その役目を終えた後にでさえ残された熱量がしつこく抵抗を続け、精神は肉体に固執し続ける。対して、行燈の場合は周囲の闇の圧力によってその魅力が外部に放出されることはないが、その分、その魅力が高い密度でその身体の中に潜んでいる。そして、寿命が尽きるときには静かに光を消す。残される死体には未練がないというわけではないだろうが、それは裂かれた腹から滑り落ちた腸を必死でかき集めようとする未練ではなく、徐々に薄れていく一瞬の意識の下で、過去とあるはずだった未来に思いを馳せ涙する未練である。つまり、生を見つめながら死を受け入れる死体だ。彼女はきっとそんな死体になってくれるはずだと思った。目を見開いて、半開きの口から前歯をほんの少しのぞかせ一筋の涎を流す姿、四肢を無秩序な方向に擲ち、制服に塗された土を草を払い落とそうともしない姿である。それはまさに生としての存在を諦めた肉体であり、生としての肉体の所有権を無抵抗に私に委託してくれるに違いない。しかし、死んでいればなんでもいいというわけではない。例えば、目は開いているほうがいい。閉じている目ではいけない。閉じている眼は睡眠の文脈の強烈な重力により、彼女を死の文脈から引きはがしてしまう。睡眠との関係は起き上がる可能性を持つものであるから、彼女は抵抗の可能性を秘めている。私が欲するのは絶対的な無抵抗である。絶対的な死である。開かれた目は、生を象徴するようで実はそうでない。本来横たわるべきでない場所に横たわっているという事実が、開かれた目に含まれる死の可能性を逆説的に表出する。白雪姫は眠るように死んでいたから、王子様のキスによって生き返ったのだ。彼女が目を開いて死んでいたら生き返らなかったのではないのだろうか。それから、口は閉じているより半開きのほうがいい。生を捨てた肉体はその肉体の内部環境を制御する必要がないはずなのだから、私自身はもちろん、外部から侵入してくる空気や、黴菌の類を拒んではならない。
これを読んでいる皆さんは、私を気味悪く感じていることだろう。ただでさえ思春期の最中の女性を欲するという変態ぶりを披露しているうえに、殺したいと言い出すとは何事かと。そんなことは私だって百も承知のことだ。思う存分に気持ち悪がればよい。しかし、一つだけ誤解をしているかもしれないから、その誤解を解いておきたい。先ほども申し上げたが、私は決して快楽殺人者などではない。私は女性を殺したいのではない。私は死体が欲しいのだ。インターネットの通販サイトで手軽に新鮮な死体が購入できるならば、私は喜んで大金をはたいて購入するだろう。
私が死体を欲するようになったのには理由がある。あまり正確に記憶しているわけではないのだが、私が死体への渇望を自覚したのは、小学生高学年ぐらいの時である。私はある刑事ドラマに魅了された。内容としては、娘の結婚に頭を悩ます中年の刑事が、殺人事件の真相を暴くというありがちのものであったが、私の興味はストーリーではなく、女優に向いた。刑事役ではない。死体役にだ。コンクリートの地面の上で四肢を無造作に投げ出した彼女の死体は、複数の刑事の凝視を受けてもそのままの姿を晒しつづけた。検死台に運ばれた彼女は裸体にされブラックライトで照らされてもまるで動じなかった。すなわち、絶対の無抵抗である。当時は、少年少女の反抗期が始まる時期であったから、大人が作った境界を壊してやろうという欲望が共通していたこともあって、15歳以上指定のスプラッター表現を含むゲームが流行った記憶がある。血が出ると興奮する異端の人間を自称する人も多かった。社会の教科書の歴史的人物の顔に赤いボールペンで落書きして、吐血させる人も多かった。だから、私自身そういう周囲のうちの一人として混ざりこんでいた。透明なセロファンの上を赤いマーカーで塗ってそれを血に見立てて漫画のキャラクターの上に重ねて遊んでいたの覚えている。当時はこの流行が今の私を創り出したきっかけになったと考えていた。しかし、今になって考えてみればこの流行は大した原因にはなっていないと思う。きっと、あの告白がすべての原因である。