髪を切るのは私の衝動。
「髪、のびましたね」
同僚に言われて気がついた。
なかなかのびない髪の毛に、“早くのびて”と念じ続け、もうすぐ一年が経つのだということに。
失恋をすると髪の毛を切りたくなると言うけれど、髪の毛を切りたい衝動は、自分を殺したい衝動なのだと、どこかで聞いたことがある。
今の自分を殺して、変わりたいのだという気持ちの現れなのだろう。
あれは去年の12月の事だった。
「クリスマス?」
「うん、もうそんな時期なんだね」
私――城田実穂はファッション誌の特集を見て呟いた。
そして彼――中井洋賢はすかさず、
「俺、仕事だから、」
と言う。だから私は何も言えなくなり、黙って雑誌に目を落とす。
彼とは三年ほど付き合っていて、半同棲のような生活をしている。
三年も経てば、こんなものなのだろうか。そんな風に思いながら、言葉を飲み込むことが増えたように思う。
去年のクリスマスをどうやって過ごしたかさえ、考えなければ思い出せないほどだったのだから。
「お姉、帰ってたの?」
「おう、弟。久しぶり」
実家を出てから弟と一緒に住んでいる家。今はお互いに社会人となり、生活時間にはズレが生じていて、今日だって弟とは久しぶりに顔を合わせたような気がする。
「久しぶりって、呑気だなあ」
「良いじゃない、帰ってきたって。
私だって家賃払ってるんだから」
「そりゃあそうだけど……連絡くらいしてくれても良いだろう」
「あんただってして来ないじゃない。
学生の時とか、どこで酔っぱらってるのかしらー、とか。心配させられたものよ」
私は空になったグラスにビールを注ぐ。
「のむ?」
私が聞くと弟は黙って頷いたので、新しいグラスを取りに立つ。
「あんた、最近彼女とはどうなの?」
「あー……」
気のない返事が返ってくる。
だから、
「そっちこそ、もうすぐ結婚とかするんじゃないの?」
なんて嫌な質問を返され、こちらも
「んー……」
と気のない返事を返した。
「何ちゃんだっけ、彼女」
「紗枝」
「一年半くらいだっけ、」
「あー丁度それくらい」
「もうすぐクリスマスじゃん、何すんの」
「それなー。俺仕事なんだよ、」
ああ、聞いたばかりの嫌な台詞。
しかし弟はしっかりとした口調で、
「でもさ、ガッカリさせられないしなあと思って。取り敢えず定時で帰れるの前提で何かしようとは思ってる」
と続けたのだ。
「えらいなあ、さすが私の弟よ」
「何、お姉もう酔っぱらってんの?」
「んーん。“俺、仕事だから、”で片付けられたのさ、私は」
「おお……でも中井さん、忙しい人なんでしょう?」
「そうだけどさ、私、去年何したかすら覚えてないの。そういったイベントの思い出って、全然ないの。肝心なとき、なぜかあの人いっつもいないのよ。どう思う?」
弟は、ビールの空き缶をテーブルの端に綺麗に並べながら、
「一緒に居すぎなんじゃないの」
と言った。
「結婚前に同棲は必要ってよく言うけどさ、一緒に居すぎってのも良くないんじゃないの。
特別感がないっていうかさ、居て当たり前になっちゃう訳でしょ。
それが日常の一部っていうかさ」
「なるほどね……悔しいけど確かにそうかも」
注ごうとして持った缶は空だった。
「よし、今日は付き合って」
「本気?」
「明日休みでしょ、たまには良いじゃない」
私がそう言うと、弟は仕方がなさそうなフリをして、
「風呂先入ってくるわ、お姉のそれ、永遠続きそうだから」
と席を立つ。
「ん、行ってきな、梅酒出して待ってるから」
そうやって弟をお風呂に見送った後――気がつけば朝だった。
目を開けると自分の部屋の天井がそこにあり、自室のベッドにいるのだとすぐにわかった。
「おはよ、」
テーブルに並べられていた空き缶はすでになく、弟は朝食を作っていた。
「ごめん、昨日は」
「別に大丈夫。風呂上がったら寝てんだもん。せっかく付き合ってやろうと思ったのに、」
「ごめん、面倒な姉で」
「良いよ別に」
弟の話によれば、梅酒の瓶とグラスがテーブルに置いてあり、私は冷蔵庫の前の床に座って寝ていたらしい。
「あ!そうよ、あんたが出てきてからじゃないと、溶けると思ったのよ」
「は?」
「氷よ、氷。それで出てくるのを冷蔵庫の前で待ってて……そのまま寝ちゃったのよ!」
記憶が戻りスッキリしたところで、弟が私のぶんまで作ってくれていた朝食を頂くことになった。
「そういえば、中井さんには帰ってること言ってあるの?」
「言ってないし、連絡もないわ」
「心配じゃないんだ……ずっと居た人が急に居なくなっても」
言われた瞬間、なんだかズキリとした。そして次の瞬間、なぜだかこんなことを言っていた。
「美容院でも、行ってこようかな」
と。
私は昔からロングが好きで、今も胸の下ぐらいまであるロングヘアー。
「なんでまた急に」
「何か変われば、周りも変わるような気がして」
自分でも意味がわからなかった。
けれども気がつけば美容院の鏡の前にいて、ぼんやりと自分の姿を眺めていた。
「急に来てすみません、」
「大丈夫よ、いつもの事じゃない」
行き付けの美容師さんは笑ってそう言いながらも、
「今日はどうする?」
と私の毛先をチェックしていた。
「なんか、切っちゃっても良いかなーって」
「え?あれだけ長さは変えたくないって頑固だったのに?」
いつもは“毛先を揃えるくらいで、”なんて言っていた私が突然そんな風に言ったものだから、一瞬美容師さんの動作は止まったように見えた。
「本当に切っちゃって良いの?」
「はい、髪は切ってもまたのびるし」
「そう?」
美容師さんはその後も何度も何度も、
「本当に良いの?」
と聞き、いつもと違ってそわそわしているように感じられた。
「どういう心境の変化?」
「んー、私の彼、本当は髪の短い人が好きなんです。でも私は似合わないから絶対切らないって言ってたんです。でも……髪切って、何かが変わることもあるのかなって。
我ながら単純って思うけど、」
「……じゃあ本当に良いのね、」
私はそう聞かれて、最後に小さく頷いた。
肩よりも短くするのは初めてなんじゃないかと思う。
そして、“バッサリ切る”という言葉通りの音が、耳元で幾度も鳴っていた。
「似合うじゃん、超新鮮、」
そう言ったのは弟だった。
「今日はそれでクリスマスのおねだりって訳だ」
「おねだりっていう歳かしら……」
「まだ若いだろ、」
「あんたに言われたくないけどね、」
弟とそんな何気ないやり取りをした後、私は彼の家に向かう。
彼は今日も仕事なので、私はその途中スーパーで軽く買い物をし、食事の用意をして待つことにした。
テレビから流れるのはクリスマスの音楽。
どのチャンネルも、クリスマス特集ばかりをやっている。
世の中はこんなにも浮き足立っているというのに……。
カチャリと音がして、私は玄関に急ぐ。
「おかえりなさい」
開いたドアの向こうで、洋賢さんは目を丸くして立っていた。
「……来てたのか、」
「うん。ただいま、」
洋賢さんは“おかえり”も“ただいま”も、言わなかった。
そして私だけが“おかえり”と“ただいま”を同時に言うなんて、なんだか可笑しくて笑いそうになる。
しかし、鍵を閉めて靴を脱ぎ始めた時、洋賢さんは料理の匂いに気がついたようで、すごく嫌そうな顔をしたのを私は見逃さなかった。
「もしかして、食べてきた?」
「……うん」
「なんか……ごめん。冷凍、しておくね」
ああ、もうダメだと思った。
挙句の果てには、ついていたクリスマスの番組を黙ってスポーツに変える。
「見てたんだけどな」
優しく私は言った。
なのに彼は「興味ないから、」
と言って、私に目もくれない。
その瞬間、何かがぷつりと切れた気がした。
「ねえ、なんなの?その態度」
「何が?」
「急に私が居なくなっても連絡もなか
ったし」
「だって、家に帰ってたんだろう」
「そうだけど……。私ってそんなに面倒?」
「誰もそんなこと言っていないだろう」
「言われてるような物じゃない。
居ないみたいに扱われてるんだもの……」
「そんなこと……」
「特別な日とか、一緒に居たためしがない。仕事は仕方ないよ、わかってる。でも……“仕事だから”って言葉投げ捨てられたら、それ以上何も言えないじゃない……」
私はそこで一息ついてから言った。
「別れよう」
と。
「待てよ。今言われたことは確かかもしれない。自分中心になってることもわかってる。
でも、ここはもともと俺一人の生活の場所。その時間が長かったんだ、まだなんとなく、ここが“自分の家”でしかないんだよ」
「……もう良いよ。帰る」
彼は私を引きとめなかった。
同時に、軽くなった私の髪に触れることも……。
切らなければ良かったかもしれない。
当時はそうも思った。
正直、あれから一年が経とうとしているなんて驚いている。
私は弟との生活を再び送っていた。
「あんたも同棲するときは、ここでもなく、彼女の家でもなく、二人でどこか借りなさいね、」
なんて言いながら。
「でもやっぱり、お姉はロングが似合うよ。元彼氏さんが一言もお姉の短い髪に触れなかったっていう真相が気なるところだけど、」
「もう良いじゃない、知らないわよ」
去年は結局、クリスマス限定の指輪がこの家に届いた。仲直りの印にと。
しかし、
『指輪なんて、どういうつもり?』
『やりなおしたくて、』
『この指輪、どの指にも大きすぎて合わないわ。私たち、やっぱりどこか合わないみたいね、』
そんなやり取りをしたのが最後となる。勿論、指輪は送り返した。
「で、お姉の今年のクリスマスの予定は?」
弟がにやにやしながら聞くものだから、
「んー……今年は仕事だから、」
なんて言ってみた。
もう当分、私がバッサリ髪を切ることはないだろう。
――次の恋が訪れるまでは。