常しえの鐘
それは絶望の音だった。
静かに響く鐘の音。ふと気づけば、ゴーン、ゴーンと鳴っている。そして、濃い霧の中から見えるのである。赤い鐘楼と、闇を固体化したかのように黒い鐘が。
「これが常しえの鐘か……」
悲壮の色を濃くし、その顔に絶望を浮かべる友人。彼は片足を怪我しているため、肩を貸してやっと前に進める状態である。
「ぞっとしないことを言うな。手はある」
「けどよぉ……もう、何度目だ。この鐘を見るのは……」
「さあな」
友人の息は細く、このまま街に戻れなければ、死んでしまうだろう。
ここは、迷宮の10階。既に探索し尽され、迷うはずもないこの階層で、私たちは迷っていた。
「どこに進んでも霧だらけ……鐘が響けば、決まってこの場所に着く……」
「しっかりしろよ。まだ、方法がないわけじゃない」
「そうは言ってもなぁ…」
嘘ではない。この「常しえの鐘」の話自体が本当だったとすれば、誰か生還者がいたからこそ、私たちは知っていることになる。
きっと、方法はある。
「別の誰かがいる可能性だってある。魔物も見当たらないし、なんとかなるさ」
軽口を叩いて、歩を進める。歩く以外に、何もできないのだ。既に方向感覚は狂い、そして、空間がどうなっているかさえ、分かっていない。
ただ、鐘楼を軸にして歩いている。そもそも、こんな広い空間があるわけないのだが……。
また一歩、また一歩。ゆっくりと進むうちに、じょじょに、友人の力がなくなっていった。視界は見通しの悪い霧のまま。引けど進めど何も見えず、ただ決まって鐘がなったときにだけ、鐘楼の元にたどり着く。それを何度も繰り返した後、ついに友人は歩くことすらままならなくなった。
鐘楼の元で座り込む二人。冷たい霧と冷えた地面が、体温を奪っていく。風もなく、流れることもない水の粒に、喉を枯らすことだけはないなと、頭の隅で思った。
「行けよ……」
小さく呟いた言葉に、いつもの明るさはない。
「俺は、もういい……一人で行け……」
蚊の鳴くような声で、友人は言葉を発する。
「冒険者になる……て……決めた時点で……覚悟は……していた……」
細く荒く呼吸をする様は、最後という言葉を嫌でも想像してしまう。
「未練はある……後悔もある……でも、楽しかった……ああ……楽しかったよ……」
そっと、友人の手をとった。冷たかった。
「後は……頼んだ……また……次が……あったら……よろしく……な……」
すっと、魂が抜けるように友人の体から力が抜ける。
私は一言も発せなかった。苦楽を共にしてきた友人の最後に、私は何も言えなかった。
涙がぽつりぽつりと、地面を濡らす。
そして、音も無く声も無く、友人の最後を看取った。
鐘が鳴る。
私はまた歩いている。目的も無く、彷徨っている。今までの人生の中で、これほど、無価値な時間があったろうか。
鐘はなり、私を始まりへと戻す。いや、終わりへと誘っているのかもしれない。戻るたびに友人の亡骸を見る。そして、私は歩きだす。
様々な事が浮かんでは消えた。
まだ、幼かった頃のこと。親の庇護の元、貧しくも楽しく生きていた時間。
冒険者になって、初めて迷宮に挑んだ日。
死にかけてもなお、しぶとく街へ生還した日。
友人と初めてパーティーを組んだ日。
酒を飲みすぎて、何も覚えてない日。
レアドロップを見つけて歓喜した日。
また、必ず戻ると約束をした日。
今日、旅立つ前の陽気さ。
人は、孤独には耐えられない。人の最も恐れるものは、恐れるべきは孤独である。いつしか、私は私という存在が分からなくなってしまった。
どれほどの距離を歩いただろうか。どれほどの思いを抱いただろうか。どれほどの涙を流しただろうか。呆然とするなか、鐘はなる。
ゴーン。
鐘がなる。
ゴーン、ゴーン。
鐘がなる。
ゴーン、ゴーン、ゴーン。
私は鐘の音を聞くと、心が真っ白になる気がした。
とても、それは透明で甘美で、何も考えなくていいのだと思った。
もしかすると、私は人間として、とても心安らかに死ぬことができるのかと思った。
そして、また、鐘がなる。
中も外も、一面を真っ白にされたとき、その黒い影が目に入った。赤い鐘楼の側、友人の亡骸の近くでうごめいている影。全身に強烈な怒りが走った。それは、この白さを汚されたと思ったからかもしれない。
「誰だ!!」
鋭く強く、私は久方ぶりの自身の声に驚いていた。
影はぴたりと動きを止めた。
「すぐにそこから離れろ。さもなくば…」
影は、ゆっくりと顔をあげた。四肢はやせ細り、まるで骸骨のような姿であった。目が異常なほど、ぎらついていた。
影はにたり、と笑った。
「きる、か。いいな、やってみろ。鐘の音も飽きた」
おぞましい声だった。
「早くしてくれよ。できないなら、こいつの物はもらっていく」
剣をかまえ、全身に力を送り、相手を威圧する。
影はたじろぐ事もなく、ゆっくりと友人に手をかける。
その姿は死神のようであった。
「やめろ」
影は、手を止めた。
「俺は止めないぞ。それが無視できないなら、早くきれよ。さっさときれよ。俺は生き延びるためにこいつにようがある」
「生き延びる? そんな死神のような姿で生きながらえてどうするつもりだ。もはや貴様は人ではない」
「人か。ああ、そういえば久しぶりに生きた人を見たな。どうだ、お前も人を止めればいい……楽になれよ」
「戯言を。お前をきる」
影はまた、にたりと笑った。
「早くしろよ。お前が生きるために俺をきるのだろう?じゃあ、早くしろ。それができないなら、ここでおとなしくしていろ」
「私が生きるためにきるだと? 違う、私は貴様を許せぬからきるのだ」
「ははは。許せないからきる? そんな馬鹿な話に付き合ってる暇はない」
耳障りな声で影は笑った。
「お前は、生きたいだろう? 人よりも自分の事を考えろよ。お前にとってこいつはなんだ?」
「かけがえのない友人だ。彼に手をかけることを私は許さないと言っているのだ」
影は、その細く鋭い目で私を見た。
「友人か。いい答えだ。お前は人なのかもしれない。だが、俺にとってこいつは生きる糧だ。少しでも、生き延びるための糧にすぎない」
「黙れ!!」
剣が空を切る。影はひょいと、軽い身のこなしで影が一歩後ろにさがった。
「よく考えろ。ここは常しえの鐘の中。何者も逃げることは叶わない。お前は、ここで朽ち果てる。だが、少しでも生きたいと思わないか? 少しでも希望があるのなら、それにすがりたいと思わないか? よく考えろ。お前と俺以外、ここには誰もいない。悪であっても、誰も責めやしない。善であっても、誰も褒めてはくれない」
答えを返さず、すっと剣先を影に向けた。
「分かっているはずだ。生きる事、生きのびる事。誰が止められる。生きようとすることを誰が否定できる? お前は生きることを望むべきだ」
影は、笑う。
「お前がここにいることが全てだ。俺がここにいることが全てだ。誰も、ほかにはいないぞ?」
私は死ぬことを恐れてはいない。私は生きることに執着してはいない。
「そうだ。お前は間違っていない。ここまで歩いてきたのは生きるためだろう?これから先も同じ事だ」
「さあ、生きる事を選べ」
「さあ、生きる事を望め」
私は……、
「さあ!!」
剣を振るった。
まるで、そこいらの棒切れを斬るかのように、事は終わった。
私は無になれなかった。
鐘がなる。私は、鐘楼に登り、思い出したように鐘を突く。
すると、どこからか人が寄ってくるのである。
そして、それを眺め、ときおり、近づく。
生きてここを出るために、私はまた鐘を突く。
白く深い霧の中、鐘の音だけが遠く響いていた。
読んで頂き有難う御座います。
本作品はリハビリ目的で書きました。書く前に羅生門のあらすじ(すみません、本編は読んでません)を読んでいます。ですので、羅生門の私なりの視点という、堅苦しいものがありますが、何卒ご容赦ください。