彼女と僕
ああ、もう死んでもいい。
そう思える瞬間があったとして、実際に死にそうな目にあったりなんかしたら本当に死んでもいいと思うのだろうか。体内で脈打つ心臓が今にも鼓動を停止しようとする苦痛に喘いでも、死んでもいいと思えるのだろうか。腹を裂いて、腸を引きずりだす激痛の最中にもう死んでもいいと思えるのだろうか。
そもそも、どういう状況にあったらそう思えるのか考えてみた。何を持って最高級というのかは分からないが、最高級の女を抱いている時とか、巨万の富を手にして札束をビルの屋上からぶちまけている時とか。それとも、世界遺産の集合体のような人類の歴史を全ての収めた遺物を見て感動した時とかだろうか。
この瞬間の為に自分は産まれてきたのだと言える瞬間。生きる事の意味をその刹那に見出す。もうこの生は終えてもいいと思わず口走る。それだけ深い感動を伝えたかっただけなのだと言われてしまえばそれまでである。けれど、そんな言葉を聞くと現実に死に際の苦痛を与えられてもそんな感動を保っていられるのだろうかと考えてしまうのだ。
リアルな生の中で発生する苦痛、恐怖、そんなものを引き合いに出して感動を表わすなどけったいなことだ。そんなもの、いくら感動しても味わいたくないに決まっている。
逆に、今わの際に苦痛がないというのであれば、もう死んでもいいなどと言う言葉に感動を表わす意味はなくなるのだろう。楽に、呼吸をするように死ぬことができるならば正直いつ死んでもどうでもいいと思ってしまう。息をするように嘘を吐く、それと同じように息をするように死んでしまう。そんな世界はどうだろうか。
「不健全。そんな世界、嫌」
僕の提案に対する彼女の返事は、簡潔だった。向かいあって座ると僕と彼女の間にあるテーブルの長さがそのまま二人の距離を表わしているようだ。
「でも、そんな世界も悪くないと思わないか?」
尚も食い下がる僕に対し、彼女の返答はもっと簡潔なものになる。無言。無視しているわけではないというのはその表情が教えてくれる。答える気にもならないという思いを、黒目の大きな瞳が蔑みの感情を伴って僕に教えてくれているのだ。
「いいと思うんだけどな」
「ふーん」
気の無い、どうでも良さそうな言葉が彼女の口からするりと出てくる。もう興味はない。その返事は無言よりも、悪い。
「死んでもいいと言ってしまう程に感銘を受ける出来事があったなら、もっと生きたいと思わない? だから『ああ、もう死んでもいいわ』なんて言いながら王子に抱かれるおとぎ話のヒロインは、なんて間抜けなんだと考えてしまうけどな」
「それ以上に幸せな出来事が彼女達にとって想像がつかないんだから、いいんじゃないの」
「自分の生きている場所がどれだけ矮小だったか、っていうのを暴露しているようなものだよ」
僕の言葉に彼女の口がへの字に曲がる。
「別にいいじゃない。お姫様達は十分に幸せなんだから。広い世界で自分の容量にあった幸せも分からずに彷徨うくらいなら井の中の蛙で結構よ」
「どうして君がそんな臍を曲げるんだ」
「あなたが屁理屈いうから」
屁理屈なんて言ってないと思うけど、彼女がそう言うならそういう事にしておいた方がいい。
「ごめん」
謝る僕を見て、彼女は曲げていた臍を伸ばしてくすりと笑った。
「でも、あなたの言う事も分かるわよ? だって私も今、幸せだけど死んでもいいわなんて思わないもの」
「僕っていう男は器の広い男だからさ。まだまだ君を幸せにしてあげられる容量が残っているからだよ」
「そうなの? それじゃあ、いつ私に死んでもいいと思わせてくれるのか、楽しみにしてるわ」
口調は意地が悪い女を装って、彼女は口の端を引き上げる。けれど、その表情は柔和そのもの。
「それは困ったな」
君がもしも、僕が与えた幸せによって死んでもいいと思ったとして、本当に死んでしまったりしたら僕が困る。この時点で、死んでもいい、というただの言葉が実際に行動を伴う言葉のように錯覚している。そんな事は知っている。
「どうしてあなたが困るのかしら? 私が幸せの絶頂で死ぬことにあなたは反対なの?」
「いや、反対じゃないよ。寧ろ、諸手を上げて大賛成だ」
「じゃあ、困ることなんてないでしょう」
彼女は意地悪だ。柔らかかった表情はもうただの意地悪な人の表情になっている。
「だって、君がもし死んだら僕が幸せになれないじゃないか」
そう返したのに、意外だという様子で目をきょとんとさせる。
「あら、あなたはそれでもいいんじゃないの? 苦痛がなければ、息をするようにいつ死んでもいいと言ったじゃない」
「実際に死ぬときは苦痛を伴うものじゃないか。息をするように死ぬなんてことは本来できないんだから。君が居なくなって、更に苦しんで死ぬなんてごめんだ」
それは一番よくない未来の姿だ。
「そうね……、じゃあ私がもう死んでもいいわと思うくらい幸せにしてくれたら、私があなたを優しく殺してあげる。それならどう?」
「優しくって言っても死ぬときに苦しいのは一緒じゃないか」
優しく首を絞められても苦しいし、優しく刺されても痛い。そんな辛い事はしたくない。痛いのも苦しいのも嫌だ。そう不安を訴える僕の手に、彼女は安心させるように両手を添える。
「じゃあ、睡眠薬で眠らせてあげるから、それから煮るなり焼くなり刺すなりしたらいい?」
「うーん、いくら薬で寝ててもそんな痛いことをされたら起きちゃうだろう」
「もう、あなたは我儘ね。私がこんなにいろいろ考えて提案してあげているのに」
そんな事を言われても、殺される算段を多少のわがままくらいは許してほしいものだ。それは僕の我儘だろうか。でも、膨れる彼女の顔がいくら可愛くてもそればかりは譲れない。
「うん、だから僕は苦しまず、痛くもなく、っていう前提の元だったら簡単に死んでもいいと言っているだけで、君の手を煩わせてまで、痛い思いをして死にたいわけじゃないんだ」
「そう。それなら腹上死は?」
「気持ちよく死ねるかもしれないけど、そう簡単にセックスの時に心筋梗塞とか起こるわけじゃないよ」
「じゃあ手始めに、あなたは今日から塩分過多の食事を始めます。それを何年も続けたら血圧が上がるから病院で高血圧って診断をしてもらってきて」
「うん、じゃあセックスの途中で興奮しすぎて脳出血で死んだらいいんだね?」
「ちょっと違う」
話の腰を折ったらやんわりと否定された。
「何? 高血圧になったらどうしたらいいの?」
「降圧剤を、うんともらってきて。それから勃起不全になってもらって、勃起不全の薬ももらってくる」
彼女がどういう状態を想定しているのか僕にはちっともわからない。
「それで?」
「セックスの前に降圧剤とそれを一緒にのむ。幸せな気分の私があなたの上に乗ってあげるだけで、貴方は低血圧で死ぬ。これならどう?」
悪くないかもしれない。そう思った僕は馬鹿だ。そんなことを提案する彼女も滑稽だ。
「そうだね、その時を楽しみにしているよ」
「今日から塩分過剰の食事を始めるとしてあと、五十年後くらいかしら?」
「そのくらいかな。そうしたら、あと五十年後に僕はもう死んでもいいと思えるくらい君を幸せにしたらいいんだね?」
「そうね」
僕の手に添えてあった彼女の手が離れようとする。僕はその手を掴まえた。
「じゃあ、今日から君が僕に塩分過多の食事を作ってくれるかい?」
そうしてポケットから出した箱を彼女に向けて開けたら、彼女は驚愕で目を見開いた。大きな黒目なのに、その輪郭が分かるくらいに見開く。その驚きが落ち着く前に、僕は話を進める。
「五十年後、死んでもいいと言えるぐらいに幸せにするから、結婚してくれないか?」
されるがままの彼女は、掴まえられた左手の薬指に拘束具を付けられるのをまじまじと見ている。ちゃんと、サイズもぴったりだ。他の雄に対して、彼女は僕のものという意思表示はこれで完璧だ。
「受けてくれるかい?」
あまりに反応がないから、そうやって返事を催促したら彼女はにっこり笑った。
「……ねえ、私今幸せで死んでもいいと思ってるんだけど、あなたは殺されたいのかしら?」
「まだ僕は死にたくないな。この程度で死んでもいいと思っちゃうなんて、君はやっぱり井の中の蛙でいいんだ?」
「ええ。私は、蛙でいいわ。もう十分に幸せなんですもの」
そう言って彼女が出してきたものが、僕が見た最期の物。きらりと光る指輪に負けず光り輝く刃物が僕の身体を切り裂いていく。ああ、もう死んでもいい。それ程、彼女を幸せにできたのならば、僕の生にもう未練はない。
幸せだからって死にたいと思ったのは僕じゃない。何故僕が死ぬのだろうかと一瞬考えることはできたけれど、もうそれ以上考える事などできない。
ああ、やっぱり痛い事は嫌いだ。