聖女の来訪
あの「大地の裂け目」での覚醒以来、私の立場は「道具」でも「宝物」でもない、何か奇妙なものへと変わっていた。
「皇后陛下、本日のドレスは瑠璃色と深紅、どちらになさいますか」
「……あ、あの、どちらでも……」
「いえ、陛下。カイザー陛下は『その日の皇后の機嫌が分かる色を』と仰せです。さあ、お選びください」
侍女たちの、まるで薄氷に触れるかのような丁重な扱い。
私を(・)怒らせることではなく、私に(・)何か(・)あ (・)っ (・)て (・)、そ (・)れ (・)を (・)カイザーに知られることを極端に恐れている。
そして、カイザー。
彼は、あれから一度も私を「道具」とは呼ばなくなった。
だが、代わりに「愛している」と言うわけでもない。
「……食え。顔色が悪い」
彼は、相変わらず無表情で、私の皿に山のように肉(おそらく龍のステーキか何かだ)を放り込んでくる。
公務の合間を縫っては、こうして私と食事を共にし、私がそれをすべて平らげるまで、じっと、あの熱を帯びた瞳で監視しているのだ。
(まるで、貴重な家畜に餌付けでもしているみたいだ……)
「これを身につけろ」と渡される宝石。
「お前は俺のものだ」という、呪いのような囁き。
彼は、私という「龍脈調律」の力を持つ存在が、誰かに奪われること、あるいは、壊れることを極度に恐れている。
それは「愛」とは似て非なる、もっと原始的で、強烈な「独占欲」だった。
私は、彼の「唯一無二の力」であり、彼の「所有物」なのだ。
それでも、故郷アストリアで「無能」として、存在しないものとして扱われてきた私にとって、この歪んだ執着は……不思議と、私の心を溶かし始めていた。
彼が私を「彼のものだ」と宣言するたび、私の心臓が、あの「大地の裂け目」で聞いた彼の鼓動と共鳴するかのように、トクン、と鳴る。
そんな、奇妙に穏やかで、息苦しい日々が続いていた、ある日のこと。
私は、カイザーの執務室の隣にある控室で、侍女たちに勧められるまま、分厚い帝国の歴史書を読んでいた(というより、眺めていた)。
カイザーが「俺の目の届く場所にいろ」と命令したからだ。
重い扉の向こう、執務室から、珍しく緊迫した声が漏れ聞こえてきた。
カイザーと、あの無口な側仕え(後に彼の側近中の側近だと知った)の声だ。
「……確かなのか」
「はっ。アストリアの密偵から。既に、国境を越えたとの報せが」
「……ほう。あの『聖女』が、自ら、か」
アストリア。聖女。
その言葉を聞いた瞬間、私の全身の血が、さあっと引いた。
(リリアンが……? なぜ……?)
「噂が、故郷に届いたようです。『無能の王女が、帝国の龍脈を鎮める奇跡の力を発揮し、氷の皇帝に溺愛されている』と」
側仕えの声は、淡々としていた。
だが、私にとっては、死の宣告と同じだった。
(ああ……やっぱり)
あの「大地の裂け目」で、私は力を使いすぎたのだ。
あの場には、護衛の騎士たちもいた。
彼らの口から、噂が広まるのは当然だった。
カイザーが、静かに、だが地を這うような低い声で言った。
「……『溺愛』、か。面白い」
「陛下。連中、表向きは『両国の友好を祝う聖女訪問団』と称しておりますが……」
「分かっている。狙いは『エリアーナ』だ」
カイザーの声が、温度を失っていく。
「一度捨てた『道具』に、稀有な『力』があると知った途端、取り戻しに来たか。……虫唾が走る」
(違う……!)
私は、思わず立ち上がっていた。
(違う、陛下。あの人たちは、そんな生易しいものじゃない)
アストリアは、力を惜しんだ父王は、私を取り戻そうとするだろう。
だが、リリアンは。
あの「聖女」の妹は、違う。
彼女は、私が(・)「奇跡の力」を持っていることなど、断じて認めない。
彼女は、私が(・)皇帝に「溺愛」されていることなど、絶対に許さない。
「失敗作」の姉が、「完璧」な自分より上に立つことなど、あってはならないのだ。
リリアンが来る。
それは、私を取り戻すためじゃない。
私を、「奪う」ためでもない。
私を、「破滅」させるために来るんだ。
*
その三日後。
帝国の謁見の間は、異様な緊張感に包まれていた。
私は、カイザーから与えられた、深紅の豪奢なドレスをまとい、彼の玉座の隣に「皇后」として立つことを強要されていた。
あの「首輪」と彼が呼んだ、深紅の宝石の首飾りが、やけに重い。
やがて、扉が開かれ、「アストリア魔法王国・聖女訪問団」が入場してきた。
先頭に立つのは、父、アストリア国王。
彼は、私を見るなり、その目を大きく見開いた。
あの「無能」の娘が、生きて、しかも「皇后」として皇帝の隣に立っている。その事実に。
そして、私のその「力」をみすみす手放した自らの愚かさに、今気づいたようだった。
だが、私の視線は、父の隣にいる人物に釘付けになっていた。
「――ようこそおいでくださいました、聖女リリアン様」
帝国の文官が、儀礼的な歓迎の言葉を述べる。
純白の、聖職者のような衣をまとった妹、リリアン。
アストリアにいた時よりも、さらに神々しく、完璧な「聖女」の笑みを浮かべている。
彼女は、カイザーに優雅に一礼し、そして、私を見た。
その、慈愛に満ちた聖女の瞳の奥で、私だけが知っている、あの「虫けらを見る目」が、ギラリと光った。
嫉妬だ。
私という「失敗作」が、自分より高位の男の隣に立ち、自分より高価な宝石を身につけていることへの、隠しようもない憎悪と嫉妬。
(……来る)
私は、カイザーの袖を、無意識に掴んでいた。
その私の微かな震えに、カイザーが気づき、私を庇うように半歩、前に出た。
そのカイザーの庇護の仕草が、リリアンの最後の理性を焼き切ったのだろう。
リリアンは、一歩前に出た。
そして、謁見の間に響き渡る、悲痛な、しかし鈴を転がすような「聖女」の声で、高らかに宣言した。
「お待ちください、カイザー陛下!
その女に、騙されてはいけません!」
玉座の間が、静まり返る。
リリアンは、私を指差した。
その瞳には、私を救いに来た「妹」の顔ではなく、異端者を断罪する「聖女」の顔が張り付いていた。
「その者は、私の姉、エリアーナではありません!
姉は、アストリアの聖魔法ではなく、この帝国の邪悪な『龍の力』に取り憑かれた……
――帝国を誑かす、邪悪な『魔女』です!」




