龍脈の暴走と覚醒
あの夜、側仕え越しに軟膏を渡されてから、私とカイザーの関係は奇妙なものになった。
相変わらず過酷な「暴走地帯」への巡行は続いている。
彼は私を「道具」と呼ぶ。
私も自分を「道具」だと納得させようとしている。
だというのに。
「……遅い。馬に乗るのにいつまでかかっている」
「……っ、申し訳ありませ……」
「チッ。……手綱の持ち方が違う。そうではない、こうだ」
彼は、馬上から私の手首を掴み、強引に正しい位置へと直させた。
その指先が、昨日軟膏を塗ったばかりの、擦りむけた手のひらに触れる。
「ひっ……!」
思わず声を上げると、彼はバッと手を離した。
その「氷の皇帝」の瞳に、ほんの一瞬、軟膏を渡した夜と同じ「戸惑い」の色が浮かんだのを、私は見逃さなかった。
(この人は、一体……)
「道具のメンテナンス」と言いながら、私の怪我を気にする。
「無能」と切り捨てず、馬の乗り方まで(乱暴に)教える。
アストリアでは、誰も私にしてくれなかったことだ。
私を「道具」と呼ぶ彼の声は、なぜか日に日に、焦燥感や苛立ちを帯びていくようだった。
まるで、「なぜお前は道具のままでいないんだ」とでも言いたげに。
そのちぐはぐな態度が、私の心をかき乱す。
この人は、ただ冷酷なだけではないのかもしれない。
そんな、淡い期待を抱き始めていた。
――その日、私たちは帝国の西の果て、「大地の裂け目」と呼ばれる場所にいた。
空は、これまでのどの暴走地帯よりも暗く、重く垂れ込めている。
空気が、まるで分厚いガラスのように肌に張り付く。
ピリピリとした魔力の圧が、すでに「龍脈の間」のそれに近い。
「陛下、これ以上は危険です!」
護衛の騎士が、馬上のカイザーに進言する。馬も明らかに怯えていた。
「……ああ、分かっている。これは……」
カイザーが空を睨み上げた、その瞬間だった。
ゴゴゴゴゴゴゴゴ……ッ!!
世界が、泣き叫んだ。
大地が、まるで生き物のように隆起し、私たちの足元で激しく揺れた。
「地震か!? いや、違う!」
「龍脈だ! 龍脈が、噴き出すぞ!!」
騎士たちの絶叫。
私たちが立っていた荒野が、目の前で「裂けた」。
地割れの中から噴き出したのは、溶岩ではない。
青白い、純粋な魔力の奔流。それは天を突き、雷となって周囲の大地を無差別に焼き尽くしていく。
「―――っ!」
過去最大級だ。
今までの試練など、ままごとだった。
これは、天変地異。
「龍脈の暴走」が、今、ここで始まったのだ。
「全軍、退避! アストリアの女を連れて下がれ!」
カイザーが、自らの魔力を解放し、荒れ狂う龍脈に対抗しながら叫ぶ。
黒い龍のオーラが彼を包むが、自然の猛威の前には、それすらもかき消されそうだ。
「ひっ……!」
護衛の一人が私の腕を掴み、馬首を返そうとする。
だが、その時。
「グ……ォオオオオオッ!!」
裂け目から噴き出した魔力の奔流が、意志を持ったかのように、最も強い魔力を持つ存在――カイザーへと襲いかかった。
「陛下っ!!」
カイザーは、黒龍の力でそれを弾き返そうとする。
だが、龍脈の力は、彼の制御を振り切った。
「ぐ……っ、ぁ……!」
彼の黒いオーラが、青白い魔力に飲み込まれていく。
馬がその圧に耐えきれず、カイザーは地上に振り落とされた。
彼は片膝をつき、自らの魔力に飲み込まれそうになるのを、必死で耐えている。
「く……そ……、この、程度で……!」
苦痛に、彼の顔が歪む。
あの「氷の皇帝」が。
アストリアの「道具」でしかない私に、軟膏をくれた彼が。
今、目の前で、魔力に喰われて死のうとしている。
(――嫌だ)
護衛の騎士は、私を掴んだまま恐怖に立ち尽くしている。
誰も、皇帝を助けに行けない。
行けば、死ぬからだ。
(嫌だ!)
私の頭の中で、故郷アストリアで虐げられた日々が蘇る。
誰も私を助けてくれなかった。
誰も私に手を差し伸べてくれなかった。
私は「無能」だから、「失敗作」だから、見捨てられるのが当たり前だった。
(でも、この人は!)
この人は、違った。
「道具」と呼びながら、「メンテナンス」と称して、私に軟膏をくれた。
私を「無価値」と切り捨てず、「役に立て」と、私に「価値」を求めてくれた。
それがどんなに歪んだものであっても、私にとっては、初めての「光」だった。
(死なせたくない!)
理屈じゃなかった。
考えるより先に、私は動いていた。
「離してっ!」
私を掴んでいた護衛の手を、ありったけの力で振り払う。
「なっ、貴様、何を!?」
「陛下が……!」
私は、馬から転がり落ちるように飛び降りた。
そして、走った。
あの、青白い魔力の嵐が荒れ狂う中心地へ――苦しみに膝をつく、カイザーの元へ。
「馬鹿か! 戻れ! 死ぬぞ!」
騎士の叫び声が、遠くで聞こえる。
もう、どうでもよかった。
魔力が肌を焼く。痛い。苦しい。
でも、あの軟膏をくれた彼が死んでしまう未来より、ずっといい。
「陛下っ!!」
私は、魔力に飲み込まれ、意識を失いかけている彼の背中に、無我夢中で抱きついた。
その、瞬間だった。
(……あったかい……?)
私の中から、魔力ゼロのはずの、この私の中から。
何かが、溢れた。
それは、龍脈の青白い嵐でも、カイザーの黒いオーラでもない。
まるで、陽だまりのような、優しくて、温かい……金色の光だった。
溢れ出した金色の光が、私と、私に抱きしめられたカイザーを包み込む。
すると、あれほど荒れ狂っていた青白い「龍脈の暴走」が、まるで母親に抱かれた赤子のように、その猛威を鎮めていく。
空を裂いていた稲妻が、消える。
大地の咆哮が、止まる。
嵐が、凪いだ。
「……っ」
暴走が完全に鎮圧され、濃密すぎた魔力の圧が消え失せた。
絶対的な静寂が、「大地の裂け目」を支配する。
私は、まだカイザーの背中に抱きついたままだった。
全身の力が抜けて、彼に寄りかかる形になる。
「……ぁ……」
カイザーの体が、ぴくりと動いた。
苦痛から解放された彼が、ゆっくりと、自分を抱きしめている温かい「何か」の正体を確かめるように、振り返る。
そして、私たちの目が、至近距離で合った。
彼の、あの「氷」だったはずの瞳が。
信じられないものを見るかのように、大きく、大きく見開かれていた。
その瞳に、金色の残光をまとったまま、必死に彼にすがりつく、私の姿が映っていた。




