氷の溶ける音
あの日、地下の「龍脈の間」で最低限の「耐久性」を示して(しまって)から、私の日常は一変した。
「乗れ」
翌朝、私に与えられた部屋の前に、一頭の軍馬が用意されていた。
アストリアの王族が乗るような優雅な白馬ではない。いかにも戦場を駆けまわっています、と言わんばかりの、筋肉質で気の荒そうな黒馬だ。
私は乗馬など、儀礼的なものしか習ったことがない。
だが、カイザーは待ってくれない。
彼はすでに、自身の巨大な愛馬に跨り、私を氷のような目で見下ろしている。
「……っ」
私は、みすぼらしいドレスの裾をまくり上げ、必死で馬の背によじ登った。
落ちても、誰も助けてはくれないだろう。
「行くぞ」
カイザーの短い号令と共に、彼と、護衛の騎士数名、そして「道具」である私が、帝都の城門をくぐり抜けた。
向かう先は、城外の荒野。
「暴走地帯」と呼ばれる、龍脈の力が制御を失い、大地が歪んでいる場所だ。
そこは、地獄のような場所だった。
空は常に鉛色で、龍脈の魔力が稲妻のように地表を走っている。
地面はところどころひび割れ、熱い蒸気が噴き出している。
遠くで、魔力の暴走に当てられた魔獣たちが、お互いを喰らい合うような咆哮を上げている。
「……っ」
私は、必死で馬のたてがみにしがみついた。
「龍脈の間」ほどの濃密さではないが、ここは「悪意」に満ちている。
ピリピリとした空気が、休むことなく私の肌を刺し、精神を削っていく。
これが、カイザーの言う「試練」だった。
彼は、私を「道具」として、最も龍脈が荒れ狂う場所へと連れ回した。
まるで、アストリアの血統を持つ私が、そこに「存在する」だけで、どの程度龍脈が安定するかを試す実験のように。
「あそこへ行け」
「そこで半刻、待機しろ」
彼は、私に命令するだけ。
私は、ただ、耐えるだけ。
だが、不思議なことに、私は一度も悲鳴を上げなかった。
もちろん、怖い。苦しい。
アストリアの魔力ゼロの私にとって、この環境は拷問だ。
(でも、まだ、耐えられる)
故郷アストリアで受けてきた仕打ちに比べれば、これは、なんと「分かりやすい」苦痛だろうか。
父の冷たい視線や、リリアンの「失敗作」という言葉は、見えない毒のように私を内側から蝕んだけれど。
この龍脈の痛みは、ただ「痛い」だけだ。
私の「心」までは、まだ殺せない。
私は、十九年間「無能」として虐げられてきた経験から、痛みに耐えること、侮辱に耐えること、そして感情を殺すことだけは、誰よりも得意になってしまっていた。
そんな日々が、何日続いただろうか。
三日か、あるいは十日か。
カイザーは、日に日に口数が少なくなっていった。
そして、私を見る目が、次第に「道具の性能を試す目」から、第5章の最後に感じた「疑念」と……そして、微かな「苛立ち」を帯びたものに変わっていった。
(どうして、そんな目で私を見るんだろう……)
彼は、私が泣き叫ぶとでも思っていたのだろうか。
「助けて」と命乞いをするとでも?
それとも、この試練に耐えられず、すぐにでも壊れて死ぬと?
その日、私たちは特に龍脈が荒れているという谷間にいた。
地割れから噴き出す魔力の蒸気で、視界が悪い。
「……っ!」
不意に、馬が魔力の奔流に驚いて高く跳ねた。
「きゃあっ……!」
私は、バランスを崩し、危うく振り落とされそうになる。
咄嗟に、血が出るほど強くたてがみを握りしめ、なんとか馬の背に体勢を戻した。
手のひらが擦りむけて、ジンジンと痛む。
だが、私は声を上げなかった。
ただ、乱れた呼吸を整え、再び馬の背に真っ直ぐ座り直す。
その時だった。
すぐ側で馬を止めていたカイザーが、まるで我慢の限界だ、とでも言うように、低い声で私に問いかけた。
「……なぜだ」
「え……?」
「なぜお前は、逃げも、泣きもしない?」
その問いは、あまりにも唐突だった。
彼の凍てついた瞳の奥に、初めて「理解できない」という戸惑いの色が浮かんでいるのを、私は見た。
私は、なんと答えていいか分からなかった。
「逃げろ」と?
私に、逃げる場所などない。
「泣け」と?
泣いて、何かが変わるのなら、とうの昔に涙は枯れ果てている。
私は、擦りむいた手のひらを見つめながら、か細く、事実だけを答えた。
「……わたくしは、ただ、『道具』として、陛下の役に立つためにここにいるだけですから」
「……」
「それに……耐えるのは、慣れていますから」
最後の言葉は、自分でも驚くほど、乾いた音をしていた。
カイザーは、それ以上何も言わなかった。
ただ、その「氷」の奥にある戸惑いの色を、さらに深くしたように見えた。
*
その夜。
過酷な巡行から戻り、冷え切ったスープで空腹を満たし、疲れ果ててベッドに倒れ込もうとした時だった。
コン、コン。
控えめなノックの音。
侍女などいない私に、誰だろうか。
恐る恐る扉を開けると、そこに立っていたのは、カイザーにいつも付き従っている、あの無口な側仕えの男性だった。
彼は、私に一礼すると、無言で小さな黒い壺を差し出した。
「……これは?」
「陛下からだ」
側仕えは、感情のない声で告げた。
「『道具のメンテナンスだ。明日、壊れられては困る』と」
私が受け取った、その小さな黒い壺。
蓋を開けると、薬草のすうっとした、けれど少し甘い香りがした。
――手当てのための、軟膏だった。
私は、呆然とその壺を見つめた。
今日、馬から落ちかけた時に擦りむいた、手のひらの傷。
彼は、見ていたんだ。
(道具の、メンテナンス……)
そうだ。道具だからだ。
明日も「試練」に耐えさせるために、壊れないように修理するだけ。
分かっている。
分かっているのに。
十九年間、「無能」として捨て置かれ、怪我をしても誰にも手当てなどしてもらえなかった私の胸に、なぜか、ちくりとした小さな痛みが走った。
それは、龍脈の痛みとはまったく違う、初めて知る種類の痛みだった。




