表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
冷徹非情な『氷の皇帝』を溶かせるのは、世界で私だけのようです  作者: 伝福 翠人


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

6/15

氷の溶ける音

あの日、地下の「龍脈の間」で最低限の「耐久性」を示して(しまって)から、私の日常は一変した。


「乗れ」


翌朝、私に与えられた部屋の前に、一頭の軍馬が用意されていた。


アストリアの王族が乗るような優雅な白馬ではない。いかにも戦場を駆けまわっています、と言わんばかりの、筋肉質で気の荒そうな黒馬だ。


私は乗馬など、儀礼的なものしか習ったことがない。


だが、カイザーは待ってくれない。


彼はすでに、自身の巨大な愛馬に跨り、私を氷のような目で見下ろしている。


「……っ」


私は、みすぼらしいドレスの裾をまくり上げ、必死で馬の背によじ登った。


落ちても、誰も助けてはくれないだろう。


「行くぞ」


カイザーの短い号令と共に、彼と、護衛の騎士数名、そして「道具」である私が、帝都の城門をくぐり抜けた。


向かう先は、城外の荒野。


「暴走地帯」と呼ばれる、龍脈の力が制御を失い、大地が歪んでいる場所だ。


そこは、地獄のような場所だった。


空は常に鉛色で、龍脈の魔力が稲妻のように地表を走っている。


地面はところどころひび割れ、熱い蒸気が噴き出している。


遠くで、魔力の暴走に当てられた魔獣たちが、お互いを喰らい合うような咆哮を上げている。


「……っ」


私は、必死で馬のたてがみにしがみついた。


「龍脈の間」ほどの濃密さではないが、ここは「悪意」に満ちている。


ピリピリとした空気が、休むことなく私の肌を刺し、精神を削っていく。


これが、カイザーの言う「試練」だった。


彼は、私を「道具」として、最も龍脈が荒れ狂う場所へと連れ回した。


まるで、アストリアの血統を持つ私が、そこに「存在する」だけで、どの程度龍脈が安定するかを試す実験のように。


「あそこへ行け」


「そこで半刻、待機しろ」


彼は、私に命令するだけ。


私は、ただ、耐えるだけ。


だが、不思議なことに、私は一度も悲鳴を上げなかった。


もちろん、怖い。苦しい。


アストリアの魔力ゼロの私にとって、この環境は拷問だ。


(でも、まだ、耐えられる)


故郷アストリアで受けてきた仕打ちに比べれば、これは、なんと「分かりやすい」苦痛だろうか。


父の冷たい視線や、リリアンの「失敗作」という言葉は、見えない毒のように私を内側から蝕んだけれど。


この龍脈の痛みは、ただ「痛い」だけだ。


私の「心」までは、まだ殺せない。


私は、十九年間「無能」として虐げられてきた経験から、痛みに耐えること、侮辱に耐えること、そして感情を殺すことだけは、誰よりも得意になってしまっていた。


そんな日々が、何日続いただろうか。


三日か、あるいは十日か。


カイザーは、日に日に口数が少なくなっていった。


そして、私を見る目が、次第に「道具の性能を試す目」から、第5章の最後に感じた「疑念」と……そして、微かな「苛立ち」を帯びたものに変わっていった。


(どうして、そんな目で私を見るんだろう……)


彼は、私が泣き叫ぶとでも思っていたのだろうか。


「助けて」と命乞いをするとでも?


それとも、この試練に耐えられず、すぐにでも壊れて死ぬと?


その日、私たちは特に龍脈が荒れているという谷間にいた。


地割れから噴き出す魔力の蒸気で、視界が悪い。


「……っ!」


不意に、馬が魔力の奔流に驚いて高く跳ねた。


「きゃあっ……!」


私は、バランスを崩し、危うく振り落とされそうになる。


咄嗟に、血が出るほど強くたてがみを握りしめ、なんとか馬の背に体勢を戻した。


手のひらが擦りむけて、ジンジンと痛む。


だが、私は声を上げなかった。


ただ、乱れた呼吸を整え、再び馬の背に真っ直ぐ座り直す。


その時だった。


すぐ側で馬を止めていたカイザーが、まるで我慢の限界だ、とでも言うように、低い声で私に問いかけた。


「……なぜだ」


「え……?」


「なぜお前は、逃げも、泣きもしない?」


その問いは、あまりにも唐突だった。


彼の凍てついた瞳の奥に、初めて「理解できない」という戸惑いの色が浮かんでいるのを、私は見た。


私は、なんと答えていいか分からなかった。


「逃げろ」と?


私に、逃げる場所などない。


「泣け」と?


泣いて、何かが変わるのなら、とうの昔に涙は枯れ果てている。


私は、擦りむいた手のひらを見つめながら、か細く、事実だけを答えた。


「……わたくしは、ただ、『道具』として、陛下の役に立つためにここにいるだけですから」


「……」


「それに……耐えるのは、慣れていますから」


最後の言葉は、自分でも驚くほど、乾いた音をしていた。


カイザーは、それ以上何も言わなかった。


ただ、その「氷」の奥にある戸惑いの色を、さらに深くしたように見えた。



その夜。


過酷な巡行から戻り、冷え切ったスープで空腹を満たし、疲れ果ててベッドに倒れ込もうとした時だった。


コン、コン。


控えめなノックの音。


侍女などいない私に、誰だろうか。


恐る恐る扉を開けると、そこに立っていたのは、カイザーにいつも付き従っている、あの無口な側仕えの男性だった。


彼は、私に一礼すると、無言で小さな黒い壺を差し出した。


「……これは?」


「陛下からだ」


側仕えは、感情のない声で告げた。


「『道具のメンテナンスだ。明日、壊れられては困る』と」


私が受け取った、その小さな黒い壺。


蓋を開けると、薬草のすうっとした、けれど少し甘い香りがした。


――手当てのための、軟膏だった。


私は、呆然とその壺を見つめた。


今日、馬から落ちかけた時に擦りむいた、手のひらの傷。


彼は、見ていたんだ。


(道具の、メンテナンス……)


そうだ。道具だからだ。


明日も「試練」に耐えさせるために、壊れないように修理・・するだけ。


分かっている。


分かっているのに。


十九年間、「無能」として捨て置かれ、怪我をしても誰にも手当てなどしてもらえなかった私の胸に、なぜか、ちくりとした小さな痛みが走った。


それは、龍脈の痛みとはまったく違う、初めて知る種類の痛みだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ