契約結婚の「道具」
「貴様は『道具』だ。俺の役に立てなければ、ここで死ぬ」
凍てついた玉座の間で、その言葉は絶対の宣告として私に突き刺さった。
死。
故郷アストリアでは、あれほど願っていた「消えてしまいたい」という結末。
だが、いざそれを他人の口から、絶対的な権力を持つ捕食者の口から聞かされると、私の体は本能で震え上がった。
(嫌だ。死にたくない)
皮肉なものだ。
あれほど「無価値」な自分に絶望し、生きることを諦めていたというのに。
いざ、この黒曜石の瞳を持つ皇帝に「殺される」と突きつけられた瞬間、私の中の何かが、必死に「生きたい」と叫んでいた。
「……ど、うぐ……?」
かろうじて、喉から絞り出した声は、自分でも驚くほどか細かった。
カイザー――氷の皇帝は、玉座に座したまま、私という「道具」の性能を値踏みするように、じろりと見ている。
「そうだ。貴様は知っているか? 我が帝国が、なぜアストリアの王族を欲したか」
「……わ、かりません……」
「そうだろうな。『無能』には、何も知らされていまい」
彼は、まるで世界で最も退屈な話でもするように、事実だけを口にした。
「我が帝国は、龍の血と共に、強大すぎる『龍脈魔法』という呪いを受け継いだ。この力は帝国を発展させたが、同時に、定期的に『暴走』する」
「暴走……?」
「そうだ。大地は裂け、魔力は荒れ狂い、民も兵士も、その奔流に飲まれて死ぬ。……そして、その暴走は、年々周期を早めている」
私は息を呑んだ。
故郷アストリアの「魔力枯渇」とは、真逆の悩み。
魔力が「足りない」ことで滅びゆく国と、魔力が「強すぎる」ことで滅びゆく国。
なんて、馬鹿げた世界だろう。
「アストリアの王族が持つ『聖魔法』の血統。その血には、荒れ狂う力を『鎮める』性質があるという古い文献を見つけた。……まあ、迷信の類かもしれんがな」
彼は、そこで初めて、つまらなそうに私から視線を外した。
「だが、試す価値はある。
アストリアの『生贄』――貴様には、その『暴走』を鎮めるための『道具』となってもらう」
「道具、とは……具体的に、何を……」
「契約結婚だ」
彼は、まるで「今日の天気は雨だ」とでも言うかのように、平然と、その言葉を口にした。
「け……っこん……?」
「龍脈の暴走は、俺、皇帝の魔力と最も強くリンクしている。貴様を俺の『妻』という形で側に置き、その血の力で暴走を抑え込んでもらう。それが貴様の『役目』だ」
側仕えの者が、音もなく私の目の前に、羊皮紙の巻物を差し出した。
広げられたそれには、ドラゴニア帝国の厳つい紋章と共に、私には読めない文字がびっしりと並んでいた。
これが、婚姻の「契約書」だという。
(結婚……私が? この、氷の皇帝と?)
父やリリアンが私を追放した時、「嫁ぐ」という言葉を使っていたのを思い出す。
ああ、こういうことだったのか。
リリアンは、私がここでこうなることを、全部知っていたんだ。
だが、私は震える手で、羽ペンが置かれたインク壺に目をやった。
(生き延びるため……)
故郷にいた時、私に「価値」はなかった。
私は「無能」で、「失敗作」で、「王家の恥」だった。
でも、今。
目の前の皇帝は、私に「価値」があると言っている。
たとえそれが、「龍脈の暴走を鎮めるための『道具』」という、およそ人間扱いとは言えない価値だったとしても。
(……でも、初めてだ)
私が、誰かの「役に立つ」かもしれないなんて。
私が「必要」とされるなんて。
それが、どんなに歪んだ形であったとしても、今の私には、それしか掴むものがない。
ここで「役に立たない」と判断されれば、私は今度こそ、殺される。
(生きたい)
私は、決意した。
震える手で、羽ペンを掴む。
そして、羊皮紙の一番下、私の名前を書くべき欄に――
エリアーナ・フォン・アストリア。
みみずが這ったような、弱々しい署名。
それが、帝国最強の男との「契約」の証となった。
私が私を「道具」として売り渡した、その瞬間だった。
*
その日の夜。
「皇后陛下」という、まったく現実味のない呼び名と共に、私には一つの部屋が与えられた。
アストリアの埃っぽい自室とは比べ物にならないほど広く、立派な天蓋付きのベッドまである。
だが、石造りの壁はやはり冷たく、ここが敵国の城であることを嫌というほど思い知らされた。
食事として出されたスープは、もう冷めていたけれど、久しぶりの温かい食べ物に、私は夢中でしがみついた。
(契約、したんだ……)
これから、どうなるんだろう。
本当に私に、そんな「龍脈の暴走」を鎮める力なんてあるんだろうか。
もし、なかったら?
考えただけで、背筋が凍る。
その時だった。
重い扉が、許可を求めるノックもなしに、乱暴に開かれた。
「……っ!」
立っていたのは、カイザー。
謁見の時とは違う、簡素な黒い衣をまとっている。
だが、その瞳の冷たさは、変わらない。
「きょ、陛下……? あの、今夜は、その……」
いわゆる、「初夜」というものなのだろうか。
だが、彼の瞳には、そういった情熱や欲の色は一切ない。
あるのは、ただ、道具の性能を確かめる技術者のような、無機質な光だけだ。
彼は、私の戸惑いなど意にも介さず、冷たく言い放った。
「寝室に来たと思うなよ、『道具』」
「え……?」
「まずは貴様の『価値』を試させてもらう」
彼は私の腕を掴んだ。骨が軋むほど強い力だった。
「いっ……!」
「来い」
彼は私を引きずって、部屋の外へ連れ出す。
向かう先は、王族が住む華やかな居住区ではない。
冷たく、湿った空気が流れてくる……城の地下へと続く、暗い階段だった。
「どこへ……!?」
「『龍脈の間』だ」
石の階段をいくつも下り、空気はどんどん濃密になっていく。
あの、ピリピリとした、肌を刺す魔力の圧。
やがて、一番奥深く。
巨大な鉄の扉の前で、彼は立ち止まった。
「ここが、帝国の心臓部。そして、最も『暴走』に近い場所だ」
カイザーは、私を扉の前に突き飛ばすようにして、冷たく見下ろした。
「貴様の『価値』、ここで示せ。――生きたければな」




