氷の皇帝、カイザー
どれくらいの時間が経ったのか、もう分からなかった。
粗末な荷台馬車に放り込まれてから、私は意識を失ったり、短い浅い眠りに落ちたりを繰り返していた。
窓一つない完全な暗闇。
ガタン、ゴトン、と絶え間なく続く無慈悲な振動だけが、私がまだ生きていることを証明しているようだった。
(捨てられたんだ……)
その事実だけが、氷の刃のように私の中に突き刺さっている。
食べ物も水も与えられず、ただ「荷物」として運ばれていく。
私はもう、エリアーナ・フォン・アストリアですらない。
私は、名前のない「生贄」だ。
やがて、馬車の速度が落ち、そして、完全に停止した。
外が急に騒がしくなる。
怒鳴るような、私には聞き取れない言語。馬のいななき。
そして、重い閂が外される、耳障りな金属音。
光が、容赦なく暗闇に慣れた目に突き刺さった。
「出ろ」
乱暴な声と共に、腕を掴まれる。私は荷物同然に馬車から引きずり出され、固い石畳の上に転がされた。
「……っ!」
思わず顔を覆う。
だが、痛む体を起こして目を開いた瞬間、私は息を呑んだ。
空気が、違う。
故郷アストリアの空気は、まるで水底に沈んでいるかのように冷たく、静かで、そして「枯渇」していた。
けれど、ここの空気は―――痛いほどに肌を刺す。
ピリピリと、電気が走るような、濃密な魔力の圧。
これが、龍脈魔法……?
見上げた空は、アストリアの薄い青ではなく、どこか力強い、深い群青色をしていた。
そして、城。
(これが、ドラゴニア帝国の……)
アストリア王城が、繊細なガラス細工だったとすれば、これは、巨人が黒い岩を削り出して作った要塞だ。
天を突くような尖塔。威圧的な城壁。
優雅さなど欠片もない。そこにあるのは、圧倒的な「力」と「支配」の意思表示。
馬車から私を引きずり出した兵士たちも、アストリアの儀礼的な衛兵とはまるで違った。
着ている鎧は、磨き上げられてなどいない。実戦でついたであろう無数の傷が、鈍い光を放っている。
彼らの視線は、私を「王女」としてなど見ていない。
父やリリアンのような「侮蔑」ですらない。
それは、「無関心」だ。
まるで、城に運び込まれた新しい剣か、食料の袋でも見るかのような目。
私は再び腕を掴まれ、その巨大な黒い城門をくぐった。
城内もまた、アストリアとは異質だった。
静まり返った故郷の城と違い、ここは活気に満ちている。
兵士たちの怒声、鍛錬の音、そして、あのピリピリとした龍脈魔法の気配が、空気中に満ち満ちている。
(怖い……)
私は、羊の群れに迷い込んだ狼――いや、狼の群れに放り込まれた、足の折れた羊だ。
ここでは、私の「無能」は、嘲笑の対象ですらなく、ただ「死」に直結する。
長い、長い廊下を引きずられ、私はついに、謁見の間だと思われる巨大な扉の前で突き飛ばされた。
「入れ。皇帝陛下がお待ちだ」
重い扉が、地響きのような音を立てて開く。
中は、無駄にだだっ広かった。
高い天井。壁には、龍の紋章が刻まれたタペストリー。
そして、その奥。
玉座が、あった。
そこに座る「彼」を見た瞬間、私は呼吸を忘れた。
(あれが、「氷の皇帝」……)
噂には聞いていた。
若くして先帝(父)を打ち倒し、帝国の実権を握った、冷徹非情の覇王。
ドラゴニア帝国の強大な龍の血を、最も濃く引く男。
カイザー・シルヴァ・ドラゴニア。
彼は、玉座に座っているというよりは、玉座を「支配」していた。
年の頃は、二十代半ばだろうか。父やアストリアの大臣たちのような老獪さはない。
その代わり、そこには研ぎ澄まされた刃のような、危険な緊張感があった。
黒曜石のような髪が、龍脈の魔力でわずかに揺らめいている。
そして、目。
目が、合った。
凍てついた湖のような、一切の感情を映さない瞳。
父の「冷たさ」とは違う。
父のそれは、私への「嫌悪」という感情があった。
だが、彼の瞳には、何もない。
あるのは、絶対的な「力」と、深淵のような「虚無」だけだ。
彼は、私が床に膝をつくのを、ただ黙って見下ろしていた。
その沈黙が、謁見の間の空気を重く、重く圧し潰していく。
やがて、彼は、まるで石がこすれるような低い声で、口を開いた。
「アストリアの『生贄』か」
その声は、私の心の芯まで凍らせた。
「……っ」
私は、アストリア王女エリアーナだ、と名乗るべきだったのかもしれない。
だが、声が出ない。
この男の前では、そんな「名前」に何の意味もないことを、本能が理解していた。
カイザーは、玉座から立ち上がりもしない。
ただ、絶対的な捕食者が獲物を品定めするように、私を頭のてっぺんから爪先まで一瞥した。
そして、彼は、私の運命を決定づける判決を、静かに下した。
「貴様は『道具』だ。俺の役に立てなければ、ここで死ぬ」




