生贄という名の追放
謁見の間へと続く長い廊下は、まるで氷の洞窟のようだった。
磨き上げられた大理石の床が、みすぼらしい私の革靴の音を不快そうに跳ね返す。
すれ違う衛兵たちは、私に一瞥もくれない。
彼らの忠誠は、魔力を持つ者――「聖女」リリアンと、父である国王にのみ捧げられている。
(私、一人だけ。役に立つ、時)
侍従の言葉が、呪いのように頭の中で反響する。
心臓が嫌な音を立てていた。
逃げ出したい。あの埃っぽい、けれど唯一安心できる自室に鍵をかけて閉じこもりたい。
だが、魔力ゼロの私に、国王の召集を拒否する力などあるはずもなかった。
やがて、重々しい装飾が施された両開きの扉が、軋む音を立てて開かれた。
広い謁見の間。
そこには、父である国王陛下が玉座に座り、その傍らには、まるで光そのもののように輝くドレスをまとった妹、リリアンが控えていた。
並み居る大臣たちも、皆、硬い表情で私を見ている。
……いや、見ている、というよりは、「値踏みしている」という方が正しい。
まるで、市場に引き出された傷物の家畜でも見るかのように。
「遅いぞ、『無能』が」
玉座からの、温度のない声。父のものだ。
私は慌てて、冷たい床に膝をつき、頭を垂れる。王族としての作法など、とうの昔に忘れ去られていたけれど、今はそれどころじゃない。
「……お呼びにより、参上いたしました。父上」
「陛下、とお呼びしろと何度言ったら分かる」
父は忌々しげに舌打ちを一つした。
この場にいる全員の視線が、私という「異物」に突き刺さる。
「さて」
父は、私への興味など一瞬で失せたかのように、本題に入った。
「諸君も知っての通り、我が国の『魔力枯渇』は深刻化の一途を辿っている。このままでは、冬を越せん国民も出よう。……そして、北のドラゴニア帝国。あの『龍の蛮族』どもが、国境で不穏な動きを見せている」
大臣の一人が、震える声で進言する。
「陛下、しかし、龍脈魔法を使う帝国と今事を構えれば、我が国は……!」
「分かっておる!」
父の怒声が響く。
空気が凍った。
誰もが、この国が詰んでいることを知っている。衰退するアストリアに、強大なドラゴニア帝国と戦う力など、もう残っていない。
その、絶望的な沈黙を破ったのは――リリアンだった。
「ご案じなく、父上。そして、大臣の皆様」
鈴を転がすような、しかし、有無を言わせぬ力強さを秘めた声。
彼女が一歩前に出ると、そこだけが光に照らされたように錯覚する。
ああ、彼女こそが「聖女」なのだと、誰もが思う。
リリアンは、慈愛に満ちた(ように見える)瞳で、私を(・)見た。
「この国を救う、素晴らしい『和平の駒』が、ここにございますわ」
「……え?」
私が顔を上げたのと、父が「申せ、リリアン」と促したのは、ほぼ同時だった。
リリアンは、残酷なほど美しい笑みを浮かべた。
「敵国ドラゴニア帝国もまた、強すぎる龍脈魔法の『暴走』に悩まされていると聞きます。彼らにとっても、アストリア王家の血は、何らかの利用価値があるはず」
彼女は、ゆっくりと私に歩み寄る。
そして、まるで汚れたものに触れるかのように、私の顎先に指をかけた。
「魔力ゼロの『失敗作』とはいえ、この者もアストリアの王女。
これを『生贄』として帝国に差し出し、和平の証とするのです。
お姉様も、国のためにその身を捧げられるとあれば、きっと本望でしょう?」
時が、止まった。
何を、言っているの?
生贄?
私を、あの「龍の蛮族」と呼ばれる敵国に?
大臣たちが、ざわめく。
「おお、なんと……!」
「聖女リリアン様、なんと慈悲深く、賢明なご判断……!」
「確かに! 魔力ゼロの王女など、生かしておくのも魔力の無駄。帝国への『手土産』としては、これ以上ない!」
そうだ、そうだ、と。
私を処刑台に送る決定が、嵐のような賛同の声にかき消されていく。
私は、信じられない思いで父を見た。
父は――玉座で、満足げに頷いていた。
「うむ。リリアンよ、見事な策だ」
父は玉座から立ち上がり、ゆっくりと私を見下ろした。
その目には、侮蔑と、そして長年の厄介払いができるという安堵の色が浮かんでいた。
「エリアーナ・フォン・アストリア」
冷たく、最終宣告が言い渡される。
「『王家の恥』であるお前が、最初で最後の役に立つ時が来た。
聖女リリアンの慈悲に感謝し、我が国の『生贄』として、ドラゴニア帝国へ嫁ぐがよい」
「そん……な……」
声が出ない。
嫁ぐ? 違う。それは、ただの追放。
ただの、生贄。
「い、嫌……」
やっと絞り出した声は、誰の耳にも届かない。
「嫌です、父上! お願い、です……!」
「黙れ、無能が」
父は、私の最後の抵抗を、虫けらを払うように一蹴した。
「決定だ。衛兵! この者を馬車へ『お連れ』しろ。荷物は不要。今すぐにだ」
「なっ……!」
有無を言わさぬ決定。
王族会議とは名ばかりの、私一人の「追放儀式」だったのだ。
謁見の間の扉が開き、屈強な衛兵たちが二人、私に向かってまっすぐに歩いてくる。
「やめて……! 触らないで……!」
私は後ずさるが、すぐに背中が冷たい壁にぶつかる。
リリアンが、目の前で、聖母のように痛ましげな表情を作って、私を見ている。
(違う……!)
あの女が、私を売ったのだ。
あの女が、私を奈落に突き落とした。
「離して!」
衛兵たちに両腕を掴まれ、まるで罪人のように引きずられていく。
みすぼらしい革靴が、大理石の床に無様な擦過音を立てた。
父は、もう私を見ていなかった。
大臣たちも。
リリアンだけが、勝ち誇った、冷たい笑みを浮かべて、私を見送っていた。
「さようなら、お姉様。どうか、お達者で」
それが、私が故国で聞いた最後の声だった。
私は、文字通り「荷物」として、王城の裏口から引きずり出された。
埃っぽい自室に戻ることも、着替えることすら許されない。
ドン、という衝撃。
粗末な木箱が並ぶ、真っ暗で揺れる何かに放り込まれた。
鉄の匂いと、馬の匂い。
――馬車だ。
そして、外から聞こえる、重い閂がかけられる音。
私は、たった今、祖国に捨てられた。
生きる「道具」として、敵国に送られるために。
絶望が、冷たい闇となって、私を完全に飲み込んだ。




