唯一無二の皇后
あの、国境地帯での決戦から、一年が過ぎた。
ドラゴニア帝国の皇后の執務室は、日当たりが良く、いつも柔らかな陽光に満ちている。
「皇后陛下、アストリア復興領からの陳情書がこちらに」
「ありがとう、マリア。……ああ、あちらの孤児院への毛織物の手配は、もう済みましたか?」
「はい。陛下が『調律』されたあの大地は、今や帝国で最も豊かな牧草地となっております。毛織物の品質も上々かと」
侍女のマリアは、心からの敬意を込めた笑みで、私に書類を手渡してくれた。
彼女は、かつて私を「アストリアの道具」と恐れていた侍女の一人だ。
だが、今、その目に恐怖の色はない。
あの後、アストリアは事実上崩壊し、帝国の「復興領」として管理されることになった。
父は王位を追われ、幽閉の身に。
リリアンは……魔力ゼロの「元・聖女」として、アストリアの片田舎で、かつて私が(・)味わったのと同じ「無能」の烙印を押されながら、生きているという。
そして、私は。
「真の結婚式」と「戴冠式」を経て、正式にカイザーの皇后となった。
(カイザーは、私を愛しているのか。それとも、私の『力』だけを愛しているのか)
あの第14章の最後、私が抱いていた不安。
その答えは、この一年が、ゆっくりと、だが確実に出してくれていた。
戴冠式の夜。
「お前が『調律の力』を持っていようと、いまいと、どちらでも構わん」
彼は、私をその腕に閉じ込め、まるで誓いを立てるように、低い声で言った。
「俺は、あの『大地の裂け目』で、俺のために命を懸けた『お前』を、手放せなくなった。……それだけだ」
彼は、不器用な男だった。
「愛している」という言葉は、あの戦場で告白した一度きり。
だが、彼の行動のすべてが、その言葉を裏付けていた。
彼は、私の「力」を封じることも、濫用することもしなかった。
ただ、私という存在そのものが、彼の傍らにいることを望んだ。
彼が望んだのは「調律の力を持つ道具」ではなく、「エリアーナ」という「唯一無二の存在」だったのだ。
私が「無能」のレッテルに怯え、何もできないと俯けば、
「フン。お前が何もしなくとも、俺が全てを手に入れてやる。お前は、ただ、俺の傍らで息をしていろ」
と、とんでもない理屈で私を甘やかした。
かと思えば、私が「皇后」として何かを学びたいと言えば、
「……好きにしろ。だが、無理はするな。お前が倒れれば、俺が(心労で)倒れる」
と、結局は心配ばかりしてくる。
私はもう、「無能」でも「失敗作」でもない。
帝国の民は、私を「調律の聖女」と呼んで敬愛し、そして、カイザーは、私を「彼の唯一」として、その命を懸けて守ってくれている。
「……ふふ」
「陛下? 何か可笑しなことでも?」
「ううん。なんでもない。……ありがとう、マリア。この書類は、私が陛下の執務室へ持っていくわ」
私は、決裁を終えた書類の束を抱え、マリアに微笑みかけた。
ここが、私の居場所。
私が、十九年間ずっと探し求めていた、温かい「陽だまり」。
*
夜。
皇帝執務室の重い扉をノックすると、「入れ」という短い許可が飛んできた。
部屋に入ると、カイザーが、山のような書類を相手に、眉間に深いシワを寄せているところだった。
「氷の皇帝」と呼ばれた彼は、今や「仕事中毒の皇帝」と呼ばれている。
私が調律の力で龍脈を安定させた結果、帝国は空前の好景気と発展の時代を迎え、彼の仕事は三倍になっていた。
「……カイザー。お疲れ様です。陳情書の決裁が終わりました」
「……ああ。そこに置いておけ」
彼は、書類から目を離さない。
私は、彼の机の向かい側に用意された、私専用の小さな執務机(これも彼が無理やり作らせたものだ)に座り、残りの書類仕事を手伝い始めた。
カリカリ、と。
二人分の羽ペンが、静かな執務室に響く。
(幸せだ……)
アストリアの埃っぽい部屋で、ひび割れた天井を数えていた私が、今、こうして、帝国で最も多忙な男の隣で、彼の仕事を手伝っている。
「無能」だった私が、彼の「役に立っている」。
これ以上の幸せがあるだろうか。
私が最後の書類にサインを終えた、その時だった。
ふわり、と。
背後から、影が私を覆った。
そして、私のよく知る、彼の匂い。
「……っ、カイザー? まだ、仕事が……」
カイザーが、いつの間にか玉座から立ち上がり、私の背後に回り込み、その両腕で、私を椅子ごと抱きしめていた。
彼は、私の肩口に、その黒曜石のような髪をうずめる。
「……ああ、まだ山積みだ」
「で、でしたら……!」
「だが、もう限界だ」
彼の低い声が、耳元で、私だけに聞こえるように囁かれる。
「……お前が、足りない」
「え……?」
「さっきから、書類ばかり見ている」
彼の腕に、力がこもる。
「俺を見ろ。俺に触れろ。……エリアーナ」
それは、命令だった。
皇帝の、絶対的な命令。
だが、その声は、私という「光」がなければ生きていけないとでも言うかのように、熱っぽく、切実だった。
「まだ、仕事が……」
私が、かろうじて最後の理性を振り絞って抵抗すると、彼は、私の耳朶を、わざと軽く噛んだ。
「ひゃっ……!?」
「知るか」
彼は、私を椅子から軽々と抱き上げ、そのまま執務室の奥にある休憩用の長椅子へと向かう。
「陛下!? 書類は……!」
「部下にやらせる。……それとも、ここで(・・・)するか?」
「そ、それは、ダメです!」
「だろうな」
彼は、私を長椅子に押し倒すようにして、その上に覆いかぶさった。
もう、逃げられない。
あの「氷の皇帝」の瞳が、今は、私だけを映すマグマのような「熱」で、私を焼き尽くそうとしている。
「お前は、俺のものだ」
あの日、戦場で聞いた、あの告白と同じ瞳。
「愛している」という言葉の代わりに、彼は、そのすべてを、私に注ぎ込む。
――私は、もう「無能」でも「失敗作」でもない。
私は、この世界で最も強くて、最も不器用で、そして最も情熱的な皇帝に愛される、「唯一無二の皇后」なのだから。




