7 壺の中からこんにちは①
河のすぐ側にある一際背の高いナツメヤシ。その根本に、異様に輝く大きな壺が安置されている。
「うわあ、立派な壺。住んでいるひとも、力のある妖霊なんだろうな」
場違いにも感嘆が漏れるほどの逸品だ。大きさはアマルが両腕で抱ききれないほどであり、表面には精緻な金色の唐草模様が描かれている。水底に沈んでいたにもかかわらず一点の曇りもなく鮮やかな色合いで、つまり、いかにも訳ありだ。
「それで、お役人さんはどうしてこの中に入ったんだろう」
「金目の品に目が眩んで手を出したのだろう。愚かな人間らしいことだ」
「いいえ、違うのよ」
アマルとスライマーンを案内してくれた女妖霊が、大きな目をくるくると回して壺を眺めながら言った。
「多分、壺の存在にも気づいていなかったわ。人間って普通、あたくしたちが近づくと気配で察して逃げるでしょう。でもあの男はずかずかと河に入って行ったの。あたくしの家で野宿を始めた時も思ったけど、勇敢よねぇ」
「勇敢じゃなくて鈍感なんだと思います」
「ふうん?」
アマルは壺を撫で、呼びかける。
「もしもーし。中にいる人を出してあげてください」
しかし回答はない。
アマルは目を眇め、鉄製と見える蓋の隙間を覗き込んだ。ほんの僅かな錆すらなく、真新しく見えるものの、外見に騙されてはならない。壺の中から漏れ出る妖気から察するに、潜んでいるのは若い妖霊ではないようだ。
「蓋に貼ってある護符が半分破れてる」
星の力を込めた護符には、魔封じの図像が描かれている。遥か昔、この壺に妖霊が封じられ河に沈められたということなのだろう。封印が解かれようとした痕跡か、護符には乱雑に剥がされかけた歪な裂け目ができている。辛うじて蓋を封じているものの、護符の神秘はもはやほとんど用をなしていないだろう。
魔封じの護符が不快なのか、近づかずにやや離れた場所でこちらを見守っているスライマーンを振り返り、アマルは訊いた。
「封印を解いても平気かな?」
「危険はないだろう。歳は食っているが、普通の妖霊のようだ。護符も子供騙しのような、素人仕事だな。破れかけのちんけな護符術が機能している様子からすれば、中の奴は普通どころか弱小かもしれぬ」
「じゃあ開けてみるね」
アマルは護符を掴み、豪快に破いた。その途端。
蓋が跳ね飛び壺が横倒しになって、中から男が一人、ぽいと吐き出された。
「お役人さん!」
アマルは膝を突き、見知った男を助け起こした。意識を失ったその身体はずっしりと重い。片手には書簡が握り締められていて、おそらくこれが、妖霊調査官の証なのだろう。つまり彼は無事失せ物探しを遂行したものの、妖霊の餌食になったというわけか。
役人の唇は青紫色で、頬は蒼白に冷えきっている。眉間には苦悶の皺が刻まれており、河の水で濡れた黒髪からは雫が滴っている。
妖霊姉さんの言うことには、彼は河に引き込まれたらしい。すぐに助け出されたとはいえ、つまりは水に沈んだ壺の中にしばらく閉じ込められていたのであり、溺れていたとしても不思議ではないのだ。
腕の中で微動だにしない男の顔を眺め、アマルは全身から血の気が引くのを感じた。縋る思いで肩をゆすり、頬を軽く張る。
「お、お役人さん。お役人さんってば。冗談はやめてください。早く目を開けて」
「ええい、叩くな!」
「わわっ⁉」
何の前触れもなく瞼が上がり、灰青色の目がカッと見開かれた。アマルは驚きのあまり役人を支えていた手を放し、跳び退る。
「びっくりするじゃないですか」
「びっくりしたのはこっちだ! せっかく友人ができたと思ったのに、無遠慮に蓋をこじ開けやがって」
「友人」
「俺はな、別に人間に迷惑をかけるような妖霊じゃないんだぜ。不覚にも、新人退魔師に練習がてら封じられて、何百年も水底の異物に甘んじてきただけだ。孤独の中、やっと俺を恐れない人間がやってきて、封印を解いてくれた。それなのにすぐまた蓋を閉じられ封じられちまって……この絶望、わかるか?」
先ほどまでの死にかけたような顔はどこへやら、唾を飛ばして捲し立てる役人はまるで人が変わったよう……いや、彼を動かしているのは本当に別人格らしい。
「あなた、壺の妖霊さん?」
「入りたくて壺に入っていたわけじゃねえよ」
アマルは顎に手を当てて、役人を観察する。
もちろん、容貌は何一つ変わらないのだが、言動が完全に別人だ。どうやら妖霊の領域に踏み込む才能に恵まれたこの男は、妖霊に気に入られてしまい、今や取り憑かれているらしい。
アマルは少し首を傾けて、とりあえず窘めてみた。
「お役人さんがまたやって来るのを期待して、調査官の証を盗んだんですね。仲良くなりたいのなら、水底の壺なんかに閉じ込めたらいけませんよ。人間は、空気がないとすぐコロっと逝っちゃうんだから」
役人姿の妖霊は、言われて初めて思い至ったようで、予期せぬことで叱られた子供のようにぴたりと口を閉ざして瞠目した。
アマルは手応えを感じながら言葉を続ける。
「ああ、可哀想なお役人さん。きっとものすごーく怖い思いをしたはず。この人、こう見えて偉い人なんですよ。きっと都に帰ったら聖王にあなたのことを報告すると思います。そうしたら、驚くくらい優秀な退魔師がやってきて、また壺の中に封じられてしまうかも」
「それは困る! ど、どうすれば良い?」
「簡単ですよ」
アマルは意図して神妙な顔で言った。
「もう二度と人間に取り憑いたりいたずらをしたりしないと、神に言葉を捧げて誓ってください。そうしたら、私がちゃんとお役人さんを説得してあげますから」
「わかった、誓う」
「だめ。それは誓うという宣言です。ちゃんと言葉にしてください」
「くっ、口うるさい女だ。……もう二度と人間に手を出しません。これで良いか」
「はい、上出来です」
アマルは笑みを浮かべて、役人姿の妖霊に一歩近づく。そして、おもむろに手を伸ばし……役人の背中を柘榴の枝で叩いた。




