3 妖霊調査官の二人
「何をぼんやりしているのだアマル。枝を禿げにするつもりか」
スライマーンの声で我に返り、アマルは手元に目を向け小さく悲鳴を上げる。
「うわあ、またやっちゃった!」
おんぼろの我が家にて。アマルは普段通り、商売道具である柘榴の枝から枯れ葉を取る作業をしていたはずだ。しかし、座した敷物の上にはいつの間にか、青々とした新鮮な葉がこんもりと積もっている。
近頃、調子が出ない。気づけばぼんやりとしてしまう。先日など、虚無になって剥き出しの土壁を凝視していたものだから、壁に穴でも空けたいのかと、スライマーンに呆れられた。
この日、アマルの呆けた様子に茶々を入れたのは、アリだった。
「どうしたのアマルちゃん。恋煩い? とうとう僕のこと好きになっちゃった?」
格子窓から差し込む陽光に透けて、亜麻色の巻き毛が艶やかに煌めいている。アリは相変わらず美男子だ。
「いかんぞアマル。妖霊の男など断じて認めない」
「うわ。重い過去持ちのスライマーンが言うと、全然笑えないよね」
「あはは、アリさんは今日も格好良いですけど、好みじゃないです」
「それ、ひどすぎない?」
おどけて胸を押さえ呻くアリ。アマルは意識して明るい笑い声を上げる。
「ほら、アリさんにはギャナ姉さんがいるじゃないですか」
「ギャナちゃんも可愛いけどさ、イフリートとしてはやっぱり、一人の女性では満足できないというか。……って、そういえばここ数日、ギャナちゃんの姿を見ないね」
「確かにそうですね。もう三日くらい見ていません。お家に帰ったんでしょうか」
ギャナの住処は近所の洞穴だ。妖霊の足ならすぐに行き来できる距離にある。何か夢中になれる玩具でも見つけて、家に連れ込み楽しんでいるのかもしれない。彼女はそういった性質の妖霊だ。
「もう何日かしたら、乾物でもおすそ分けしに行こうかな」
アマルが呑気に言った時だった。
格子窓の外を何かが横切ったらしく、室内に差し込む光が一瞬だけ翳った。周囲には茫漠とした砂漠と雄大なイシュラ河の流れしかない。つまり辺境の地だ。いったい何者がやって来たのか。
来訪者は、規則正しい速さで扉を叩いた。
「アマル、いるか?」
名乗りもしない無遠慮な口調。聞き覚えのある声に、アマルは信じられない気持ちで扉を押す。
薄く開いた板の間から砂塵と強烈な陽光が飛び込んで、思わず腕を上げて目元を庇った。日差しの中、ぼんやりと浮かぶ姿を目にし、アマルは目を瞬かせて一拍置いてから、やっとのことで呼びかける。
「マシュアルさん?」
「久しぶりだな」
端正な顔は、何やら青白い。旅疲れかと思ったがそれだけではなさそうだ。彼の疲労困憊の理由は即座に判明する。
「それ、いったいどうしたんです」
「陛下と第二夫人からの勅命を伝えに来た」
「いえ、そうじゃなくて、その右腕の」
マシュアルの右腕にはなぜか、ギャナがしなだれかかっているのだ。
マシュアルは気にしないことに決めているらしく、ああと唸り短く答えた。
「目覚めたら、こうなっていたんだ」
「へ、へえ、目覚めたら」
どのように反応すべきか困惑するアマルの鼻先に、マシュアルが書状を突き付けた。
「とにかく、勅命だ」
目顔で読めと促され、アマルは紙面を目でなぞり朗読した。
「第二夫人付き退魔師アマル。聖暦五百五十八年天秤の月某日をもち、妖霊調査官に任命する。……え、妖霊調査官って、マシュアルさんのことですよね」
「妖霊調査は本来、一人でする仕事ではない。危険だからな。ところが俺の相棒アリは解任された。そこで聖王と第二夫人の目に留まったのが君だ。栄誉なことだぞ。どうせ君はこれからも仲裁人の仕事を続けるんだろう。それなら、妖霊調査官として聖国のために尽くすのもそう変わらないはずだ。約束通り、家はきちんと修繕するし、現金が手に入れば暮らし向きは格段に良くなるだろう」
「身に余るお話で……えっと、ギャナ姉さん?」
「アマル、三日ぶりねえ。そこのイフリートも良いけど、やっぱりあたくし、ちょっと口付けでもすれば途端に生気を失った顔をする人間の軟弱さに、どうしようもないくらい愛おしさを感じるみたいなの」
「そっか、ギャナ姉さん。恋ですか」
大きく頷くアマルに対し、アリは両手を広げて大仰に嘆いた。
「マシュアル様なんて、君が近づいてもなかなか気づいてくれないだろ。あんな鈍感男に泣かされることはない。僕の方が絶対に君を幸せにできる」
「……何よ。言ってくれるじゃない」
基本的に血色の悪い肌色をしているギャナの頬に、珍しく朱が差した。
ギャナはマシュアルの腕から離れ、ふわふわと浮遊しながらアリに寄り添い見つめ合う。
「アリ、あんたやっぱり良い男ね」
「やっと僕を見てくれた。どうだい、これからお楽しみでも」
「わわわわわ!」
アマルは素早く両手で顔を覆い、指の間から妖霊の男女を覗き見る。そうこうしているうちに、げっそりした様子のマシュアルが書状を丸め、恭しく両手でアマルへと差し出した。
「見るな。目が腐る。それよりもほら、妖霊調査官の任命書、受け取るだろう?」
「えっと、災禍の星の正体は判明したのに、まだ調査官が必要なんですか?」
「ああ。聖国……特にジーニヤーナ地方には妖霊がらみの事件が多いからな。本当は、陛下は君を宮廷退魔師として迎えたかったようなんだが、君は退魔師ではなく仲裁人なんだろう? であれば調査官として、現地を巡り仲裁を行ってほしいと仰せだ」
さあ、と再度差し出された書状。初めて出会った時よりも日に焼けたマシュアルの手に、アマルは感慨深さを覚えた。
彼と出会うまでは、円城都市に行くどころか、人間と長期間行動を共にすることになるだなんて砂粒一つ分すら思ってもみなかった。ところがどうしたことか、アマルはこの一月強で、自身に秘められていた秘密と向き合い、新たな仲間を得て、今や聖王のために働く身分を手に入れようとしている。
正直、自分に自信はない。常にへらへらと笑って過ごしてきたのも、己の弱さを隠すためだった。しかし。
「俺が一人で妖霊調査を行ったとしたら、何度も危険な目に遭うだろう。そうすれば、憤りに任せて『ジーニヤーナ地方の妖霊を一掃すべし』と報告書に書くかもしれないぞ」
「マシュアルさん、ずるいです」
すかさず切り返したアマルに向けて口の端を持ち上げて見せ、マシュアルは妖霊調査官の証書を半ば押し付けた。
「じゃあ決まりだな」
勢いに負け反射的に証書を受け取ったアマルは、身体の底から高揚と萎縮が相反しながら渦巻き湧き上がるのを感じた。
「頼んだぞ、相棒」
マシュアルが右手を差し出す。アマルは証書を左腕に抱き、おずおずと右手を伸ばす。
ぱん、と音を立て、手のひらが重なり合う。握り締められた互いの手に、アマルは感動を覚え涙ぐんだ。
「ううっ、こんな日がくるなんて」
マシュアルは不気味そうに少し頬を引きつらせてから、手を離す。
「なぜ泣く?」
「ごめんなさい、人間のお仕事仲間ができるなんて感激で」
「そ、そうか」
「改めて、これからよろしくお願いします」
アマルは指先で目尻の水滴を拭い、気を取り直して訊く。
「ところでマシュアルさん、三日間ずっとギャナ姉さんに憑かれていたんですか?」
「三日だと? いや、ギャナが現れたのはつい今朝……」
マシュアルは、己が妖霊に対して鈍感であることを思い出し事実を察したらしく、今期最大の渋面を作った。それから、「ここだけの話だが」とぼやき始める。
「本音を言えば、妖霊調査官なんてもうやりたくないんだ。あいつらに関わるとろくなことにならない。だからせめて、君のように妖霊に精通している相棒がいてくれると、その……助かる」
突然吐露された胸中に、アマルは目を丸くする。
その顔を見て、不適切な発言だったと思ったのか、気まずげに頬を掻くマシュアル。人は彼を不遜だと言うのだが、アマルには、そればかりとは思えない。むしろどこか可愛らしい面があるとさえ思う。
アマルは思わず噴き出した。
「マシュアルさんの妖霊引き寄せ体質は、妖霊調査官に適任だと思いますよ。会えなければ調査はできませんから。でも安心してくださいね」
アマルはマシュアルの灰青色の瞳を真っ直ぐ見上げ、人生で一度は言ってみたかった言葉の一つを、上ずった声で叫んだ。
「私が守ってあげますよ。あ、あああああ、相棒っ!」
これからアマルは、淡く憧れていた人間社会の中で妖霊と人間の橋渡しをして暮らすのだ。
ほんの数ヶ月前の自分が聞けば、都合の良い夢だと一蹴することだろう。だがこれは、紛れもない真実だ。
アマルの胸にじんわりと感動が広がった。しかしその熱を、不意に絡み付けられた、ひんやりとしたギャナの肢体が奪っていった。
「ふふん、これからはアマルに会いに来たら、イフリートと色男、両方と遊べるわけね」
「ギャナ姉さん、恋多き女ですねえ」
今日も明日も明後日も、妖霊調査官の受難は続く。
<完>




