1 その手記、まだ題名はない
――こうして、災禍の星を探し出すという、妖霊調査官の初仕事は幕を下ろした。
ハレムも宮廷も人が多く集まる場所なので、日々小さな事件に溢れている。それらをいちいち取り沙汰しては、処理に追われるだけで日が暮れてしまうだろう。
それゆえ普段ならば、細々とした諍いを聖王の耳に入れるわけにはいかず、事件は密やかに解決を見ることがほとんどだ。
イフサーン王子の妖霊憑き疑惑の真相も、本来ならば例に漏れず聖王の預かり知らぬところで決着して、何事もなかったかのような明日が始まるはずだった。その慣例を崩したのはほかでもない。あの墓地でスライマーンから真相を聞いたマシュアルである。
悪意ある妖霊だという疑惑を抱かれたアマルは、一歩間違えれば命の危機にさらされる。それを覆すことができるのは、聖王だけだと考えて、臨席を懇願したのだ。
アマルは、指輪で誰かを裁くことを嫌っていた。むしろ、恐れてさえいた。
これまでも、脅しやはったり以外で指輪の力に頼ったのを目にしたことがない。彼女は、災禍の星の正体であった指輪を手にしても、裁きのために使うことを躊躇うはず。その様子を見れば、彼女は聖国に害なす存在ではないと、聖王に理解してもらえるのではないかと思ったのだ。
正直、アリがイフリートだとは思いもよらなかったので、聖王にしてやられた気分でもある。後日、言及したところ、アリの正体を知っていた聖王は当初から、災禍の星の話も何らかの企みの一環ではないかと疑っていたそうだ。
ではなぜ、問答無用でアリを捕らえず、下々の者を躍らせて事件を解決させたのか。不機嫌を隠せず訊ねてみれば、聖王は心底楽しそうに言ったのだ。「あのマシュアルが他人のために頭を下げるのは初めて見たからな」と。
後からこの話を聞いたアマルは例のごとく、《《友》》マシュアルとの深い絆を感じて目を潤ませた。どうも調子が狂うマシュアルであった。
ともあれ、今回は聖王が関与したことで、驚くほど迅速に事態が収束したのは事実である。
イフサーン王子は軽いお咎めを受けたものの、改心して時期聖王として勉学や武芸に励んでいる。王子を唆した赤髪女官はハレムを追放されたものの、ムルジャーナの嘆願もあり命を奪われることはなかったようだ。
そしてアリはウダフィー家の弟子から除籍され、アマルとスライマーンと共に、砂漠へと向かうことが決まった。
彼らが円城都市を出る日には、城壁の門まで見送った。別れに際し、マシュアルは意識してさっぱりとした言動を貫いた。
「良いか、アリ。スライマーンを怒らせるなよ。せっかく名誉挽回の機会をもらったのに、棒に振るのはもったいない。あと、人間妖霊問わず、目にした女性を全員口説くのはやめろ。どうしてもというなら、ギャナにしておけ。彼女はアリみたいな優男が好みなはずだ。多分」
「回りくどい言い方ですが要は、アマルちゃんに手を出すなってことですね? やだなあ、僕だって分を弁えていますから、手当たり次第みたいなことはしませんよ。でも本気だったら良いですよね」
「何でも良いが、スライマーンに抹殺されないでくれよ」
「ご心配痛み入ります」
「アマル、あのあばら屋は、建て替えさせよう。少ししてから腕の良い土木工を遣わすから、期待して待っていてくれ」
「本当ですか! よかった。これで倒壊の心配もなく、屋上でナツメヤシやお魚を干せますね」
「部屋もいくつか作らせると良い」
「客室ができたら、また遊びに来てくださいね」
「ああ」
いつかそんな日が来ると良い。しかし実際、二人の立場はかけ離れ過ぎている。進む道が再び重なることはないだろう。
災禍の星の一件が解決したからには、妖霊調査官という仮の役職は返還し、マシュアルは聖王の一側近に戻った。一方のアマルは砂漠の妖霊仲裁人。
アマルも身分の壁は理解しているらしく、悲しげに微笑んだ。
「お別れですね。私たち、離れてもずっとお友達ですよね」
「そうだな。だがまあ、何というか、君ならこれからたくさん他の友人も作れるだろう。目の色も戻ったし」
そう、マーリドの魂が離れると、アマルの瞳は澄んだ薄青色になったのだ。これが生来の色なのだろう。
「無理ですよ。私なんか」
ふにゃりと顔を緩めるアマルに、マシュアルはあえて語気を強めた。
「そうやって卑下するのはやめろ」
淡々とマシュアルは言う。
「無駄に媚びもするな。本来、君の心には強い芯があるはずだ」
「芯」
「アマルの芯は、安易に善悪を断じないことなんだろう。過ちを犯したものに機会を与え、悪の道から引き上げようとする。君は、自分の信念を貫き真っ直ぐに生きている。周囲の顔色を窺いへらへらと笑っているよりも、信じるものを見つめる真摯な眼差しの方がずっと良い」
アマルが目を丸くして黙り込んでいる。しんと静まり返り妙な温度になってしまった空気の帯を、茶化すようなアリの言葉が蹴破った。
「あーあ、マシュアル様。説教臭い男は嫌われま」
「わあ、これぞ親友だからこその熱いお言葉ですね! 胸に響きます」
「え、うざったくないの⁉︎」
「うるさいぞアリ」
マシュアルは真顔で返した。
明るく騒ぎ立てる三人の足元で、黒い大型犬が尾を膨らませて左右に揺らす。
「ふん、緊張感のない奴らだ」
吐き捨てられた言葉に反し、尾を振るスライマーンはどこか上機嫌にも見えて、マシュアルは思わず頬を緩めた。
幼馴染であるアリは別としても、アマルやスライマーンと過ごした期間は、ほんの束の間のこと。夜空を駆け抜ける流星のような一時だ。しかし、燃え盛る星屑がもたらした火球はマシュアルの心に明るい痕跡を残した。
焼かれた胸がひりひりと痛むのは、いったい何ゆえか。マシュアルは鼓動の真上に手を当てて、胸の疼きを抑え込む。
まだ名前も与えられない感情の萌芽はしかし、誰に知られることもなく砂に埋もれて消えていく。
それでも彼は確信していた。彼女のことは、生涯忘れることはない。
「マシュアル様」
執務室の扉を叩く音と共に、聞き慣れた小姓の声がした。窓を見遣れば、日差しが傾き始めている。聖王との定例会議の時刻だ。
マシュアルは扉へ向けて、少し待てと返してから、止まっていたペンを紙面に滑らせた。
――そして、賑やかな妖霊仲裁人一行は、風紋に飾られた砂丘を踏み分けて、砂漠の向こうへと去って行く。橙色の砂地に落とされた駱駝の影を見送り、心から祈る。彼らの未来に神のご加護があらんことを。
「まあ、こんなものか」
マシュアルは、走らせていたペンを置き手記を閉じた。それから腰を上げ、声を張った。
「待たせたな、今行く」
重厚ななめし革で作られた表紙には、まだ題名はない。




