11 憎しみは憎しみを生む③
アマルは瞠目する。ムルジャーナが小さく悲鳴を上げて、聖王に許しを乞うたが叶わない。
妃の嘆願にも応じぬ聖王の断固たる姿を目にした途端、アマルの全身の血は冷え切り、指先が震えた。
「で、でも」
「占星術師スライマーンは弟子に目をかけ、アリが悪事を働く未来は必ず変えられると言っていた。だが、私にはそうは思えない。指輪を手に入れようとするアリの態度を見る限り、星が示した通り悲惨な未来が訪れるのではないかと憂慮している。アリとは幼少の頃からの仲であり、信じたい気持ちはある。しかし私は聖王だ。万が一にでも民を危険にさらすわけにはいかない。後顧の憂いを絶つために、イフリートを滅するのだ」
さあ、と再度促され、アマルは震える手を持ち上げて、アリに指輪を突き付ける。
アリの夕日色の瞳を見据える。心なしか、普段よりも紫がかっているように見えた。妖霊であることを隠す必要がなくなったからだろうか。それとも、アマルの暗澹たる気分がアリの瞳に影を見せるのか。
「アマル、やれ。陛下のご意思だ」
腕を上げたまま動けないアマルに、マシュアルが囁いた。
彼の言うとおりだ。聖王の勅命を受け、拒むことなど許されない。しかし。
指輪は神の意思に基づき善悪を判断しているのだと思っていた。だが違っていた。指輪を動かす者が悪だと思えば発動するのだ。
そんなこと、できない。アマルには、アリが悪だとは思えない。
アマルは幼少の頃からずっと、妖霊のような薄紫色の瞳を持つというだけで、皆から遠巻きにされてきた。偏見を受け心が荒み、負の感情が全身を支配する感覚を、身をもって知っている。
アマルだって、スライマーンという理解者がいなければ、憎悪で道を誤っていたかもしれない。
「で、でも、そういう未来が訪れる可能性があるっていうだけなんですよね。私には、できません。起こってもいない未来の罪を裁くなんて……」
「アマル、気持ちはわかるが」
「でもマシュアルさんっ!」
感情が喉に詰まり、言葉が出ない。アマルは唇を噛み締めた。
そもそも、アリが犯した罪は何だろう。
自分を封じる力を持つ指輪を恐れ、身分を隠して宮廷に近づいたこと。手に入れた指輪を抹消しようとしたこと。
しかしいずれの原因も、人間が高位の妖霊であるイフリートを必要以上に恐れ、悪しき者であると決めつけたことではなかろうか。
イフリートは、自身が人間から嫌悪されていることを知っていた。だからこそ、いつか迫害されるのではないかと恐れていた。人間は、イフリートが指輪の消滅を望むのは彼が悪事を企んでいるからではないかと邪推して、イフリートが懸念したとおり、今や指輪で彼を滅しようとしている。
ここでも憎しみが憎しみを生んでいるのだ。もはや、どこが起点だったのかも定かではない。
アリの表情は、驚くほど静かだ。彼とは短い付き合いだったとはいえ、印象深い思い出が鮮明に蘇る。
砂漠の旅の途中、親しく言葉を交わした時の人好きのする笑顔。市場で女性を口説いていた姿は、なるほど確かに女好きのイフリートらしい。それから、街の飲食店で思い出話に花を咲かせもした。マシュアルたちとの幼少期の思い出を語る口調は決して、悪しき存在のそれではなかった。純粋な親愛の情が、アリの心を満たしていたのではなかろうか。しかし。
非力な田舎娘であるアマルには、聖王の決断に異を唱えることなどできない。アマルは、指輪をはめた人差し指を親指で押さえるようにして拳を握り締めた。
聖王の視線が注がれている。緊張と困惑で涙が出そうだった。
王は、イフリートを裁くことを命じている。そう、これは聖王が決めたこと。アリを裁くのはアマルの意思ではない。ならば責任だってないはずだ。
それに、アリはいつか悪事を働くのだ。事前に防ぐことには正当性があるはず。
なんとずるい思考だろう。アマルは自身を軽蔑する。口の端から自嘲が滲む。心が、黒くどろどろとした液体に浸されていく。それもこれも、アマルに責任はない。でも、本当に?
「アマル」
マシュアルの小さな声に呼びかけられて、アマルは暗黒の流砂の底から引き戻された。
彼の灰青色の瞳は、銀の杯に注がれた水のように静かに凪いでいた。やれと言った割に無理強いする様子はなく、アマルの決断をじっと待っている。やがて彼は、アマルにしかわからないほどの微かな仕草で頷いた。
矛盾する態度に混乱を覚えたが、アマルは背中を押された心地がした。さらに援軍が現れる。足元に、温かなものが寄り添った。スライマーンだ。
「大丈夫だアマル。おまえが信じる通りにするのだ。我はマーリド。最高位の妖霊なのだぞ。イフリートの若造を隷属させるくらい造作ない」
「スライマーン、それって」
養父の紫色の瞳と見つめ合う。やがてアマルは、スライマーンの意図を察した。それを望むということはきっと彼も、アマルと同じ気持ちでいるのだろう。つまり、スライマーンもアリに更生の機会を与えるべきだと考え、自ら監視人の役すら買って出ようとしているのだ。
アマルはスライマーンに頷いてから、腹の奥に力を込め、毅然と顔を上げて聖王を直視した。
「やっぱりできません。アリさんがイフリートだというだけで、起こしてもいない罪を問うことはできません」
「ほう?」
「もし彼を裁くなら、私は同じ高位の妖霊であるマーリド……スライマーンも裁かないといけません」
「ではどうする。イフリートを野放しにして、聖国に万が一のことがあれば、そなたは責任を負えるのか」
「マーリドがいます」
「ふむ?」
「アリさんのことはスライマーンが見張ります」
「つまり、アリと暮らすというの?」
ムルジャーナが裏返りかけた声で言うのだが、スライマーンはいたって真剣だ。
「我の目が確かなうちは、滅多なことにはならん。さて、イフリート」
スライマーンの紫色の瞳が底光りする。
「跪け。そして我に従属せよ」




