10 憎しみは憎しみを生む②
弾かれようにアリが身体ごと振り返り、ムルジャーナが椅子から腰を上げた。
驚きに目を瞠る二人とは対照的に、マシュアルは冷静に声の主を迎えて腰を折る。
「陛下」
赤地に金の刺繍が施された長衣を纏い、宝玉を挿した被り物で頭部を覆った三十代ほどの男が、悠然とした足取りでやって来た。
彼が、聖国の長。神の声を聴くといわれる聖王か。アマルはムルジャーナに倣い、ぎこちなく目を伏せ礼の体勢を取った。
聖王は鷹揚に頷いて応じる。
「そこの娘よ、彼に指輪を渡してはならぬ。犬の妖霊よ、アリの正体を知っているはずだろう。その上で命じる。……悪ふざけは大概にするのだ」
普段、犬呼ばわりをされると不機嫌になるスライマーンだが、この時ばかりは生真面目な調子だ。
「ふむ、それもそうだな」
スライマーンは唸り、紫色の瞳をぎらりと光らせてアリを見る。そして、耳を疑うようなことを言った。
「茶番は終わりだ。ひれ伏せ、イフリート。我よりも下等な妖霊よ」
イフリート。マーリドに次ぐ高位の妖霊だ。知識の上では知っている。だが、なぜ今この場でその名が呼ばれるのか。
「ま、待って、いったいどういうことなの。イフリートって」
衝撃から生まれた沈黙を裂き、ムルジャーナが震える声で皆の疑問を代弁した。答えたのはスライマーンだ。
「言葉通りだ。あの青年はイフリート。つまり妖霊だ」
「あり得ないわ!」
ムルジャーナが叫ぶ。
「アリとは子どもの頃から一緒に育ったのよ。妖霊のはずがない」
「高位の妖霊ならば、その程度の変化や演技は造作ない。今だって、赤子にも老人にも化けられるだろう。それに、奴がイフリートだということを我に語ったのは、今は亡き元宮廷占星術師のスライマーンだ。……なあ、アリ?」
アリは唸っただけで、否定する様子はない。それが、答えなのだ。
ムルジャーナがよろめいて、小卓に手を突いた。衝撃で揺られた燭台や器が触れ合い、耳障りな音を立てる。アマルは慌てて第二夫人に駆け寄って、腕を取り支えた。
「ム、ムルジャーナ様。大丈夫ですか」
「ええ、ごめんなさい。少し、眩暈が」
「座ってお休みください」
アマルは壁に沿って置かれた長椅子にムルジャーナを導いた。一連の流れを見守っていた聖王が、案じる声を発する。
「ムルジャーナ。ウダフィー家の縁者としては、聞くに堪えない話だろう。別室で休むか」
「いいえ。アリは家族にも等しい人です。聞き届けます」
ムルジャーナは顔面蒼白ながら、背筋を伸ばして椅子に掛け、気丈に言った。聖王は妃に軽く頷いてから、アリに向き直る。
「アリ、おまえの正体は亡きスライマーンが星読みで導き出し、退魔師としての経験から確信を得ていた。そなたが、ウダフィー家の指輪を恐れ、この世界から指輪を抹消しようと企んでいたのも知っている」
「そりゃあ無理がありますよ。だって、それならどうして大師匠は僕を弟子に?」
「宮廷退魔師の力をもってしても、イフリートを調伏するのは命がけだ。できることならば、直接対決は避けたい。それゆえ、アリというイフリートが悪事を働く者なのか見極めようと、己の目の届く場所に置いたのだ」
「大師匠は妖霊に占星術師を教えたというのですか」
「筋が良い若者だと言っていたな。素直にものを聞く可愛い弟子だとも。さすがに退魔術は受け付けなかったようだったが」
懐かしむように目を細めてから、聖王は続ける。
「彼は、アリが人間と共に暮らすことで、いつか考えを改めて未来が変わり、指輪の消滅など望まなくなる日がくるのではないかと期待していたのだ。しかし、偉大な占星術師であり退魔師であったスライマーンにも、寿命が訪れる。彼が命を落としたことで、宮廷にはイフリートを抑えることができるほどの退魔師はいなくなった。その代わりにスライマーンは、そこの妖霊に指輪を託したのだろう。彼はマーリド。妖霊の中で最も高位の存在だ。たとえイフリートとて敵わない。ならば指輪の隠し場所としてこれ以上の場所はない」
「その話が真実なら、大師匠は結局、僕が指輪を抹消しようとする未来は変わらないと思ったんですね」
「彼は占星術師ゆえ、情よりも星の言葉を信じざるを得なかったのだろう」
アリは身体の横で軽く拳を握った。何かを堪えるように目を閉じてから、やがて瞼を上げて自嘲げに鼻を鳴らした。
「まったく、星々までもがイフリートは悪事を働く存在だと決めつけるのか」
「では認めるのか、アリ。その……自分が妖霊だと」
呆然とした様子で言葉を落としたマシュアルへ目を向けて、アリは口の端を歪めて言った。
「むしろ今さら過ぎますよ、マシュアル様。そりゃもちろん、ばれないようにしっかり目の色も変えたし妖力も抑えましたけどね、ずっと一緒にいても全然気づかないから驚いていたくらいです」
「なぜウダフィー家に近づいた? 妖霊にとっては好ましくない一族だろう」
「理由は、聖王がおっしゃるとおりです。その指輪をこの世界から消し去りたかった」
「どうして」
「幼い頃、大師匠の父親に、その指輪で祓われかけたんです。僕はただ、人の子と楽しく遊んでいただけだったんですけどね。人間からすれば、自分の子どもがイフリートと親しくしているのが恐ろしかったようで。その事件があってから、僕は指輪が怖くなってしまった。その後何十年かして、大師匠に出会いました。人に化けて近づいたら簡単に騙されましたよ。異様なほど賢い子どもを装ったら、なんと弟子にしてもらえた。宮廷占星術師だとか退魔師だとか、たいそうな肩書を持っていても大したことないな、と思いました。でもそれは、僕の目論見を全部知った上での行動だったんですね」
聖王が、彫像のように感情の薄い頬をしたまま口を開いた。
「指輪を抹消するために妙な動きさえしなければ、誰もそなたを迫害することはなかった」
「罪人みたいに見張っておいて、それをおっしゃるのですか」
「今後、監視することはない。私はそなたの処遇を決めたのだ。さあ、退魔師の娘」
聖王はアマルに命じた。
「その指輪でイフリートを裁け」




