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妖霊調査官の受難記 ~砂漠に昇る災禍の星~  作者: 平本りこ
第四話 妖霊調査官と災禍の星

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7 誰が悪なのか①

「マーリド様。どうかこの子を守って……」


 今にも崩れ落ちそうな廃屋の中。床に作られた寝床の上で、生後間もない赤子を抱いた女がマーリドを見上げていた。彼女の全身は、先ほどまで繰り広げられていた命を生み出すための凄絶な戦いと高気温のため乾ききらない汗に塗れている。


 マーリドは、女が差し出した赤子をおずおずと抱く。温かな塊は驚くほど小さく、腕に力を込めれば潰れてしまいそうで、できることならばすぐに女に返したかった。だが、それは無理なことだった。


 駱駝が砂を蹴る音と、人間たちの怒声が近づいてくる。マーリドは高位の妖霊だ。その気になれば、非力な人間らなど、瞬時に灰にすることができる。しかし、目の前で気丈に微笑む女がそれを望まなかった。


「あなたには酷だけれど、彼らを憎まないで。私の家族なの。さあ、その子を連れて逃げて。あなたの子だもの、大丈夫よ」

「しかし、そなたは……」

「大丈夫。私は人間だから、きっと命は助けてもらえる。でもその子は違う。半妖だと知れれば、赤子のうちに殺されてしまうわ。だからどうか」


 産後数時間の女の手がマーリドの腕を強く掴む。震える指先からはしかし、強靭な意志が滲み出ていた。


 マーリドはしばらく女の顔を見下ろしていたが、いよいよ喧騒が近くなると、赤子を抱き直し頷いた。


「わかった。必ずこの子を守る」


 女の顔が、泣きそうに歪む。永遠の別れになるかもしれない。安堵に混じり、言い知れない悲しみが浮かんでいる。マーリドは女の腕を撫で、出入り口の方へと身を翻す。


「待って」


 砂塵の中へ爪先を踏み出しかけた時、女が叫ぶように呼び止めた。


 肩越しに振り返れば、彼女は肘を突き上体を起こし、精一杯の笑顔を見せた。


希望(アマル)。その子の名前はアマルにしましょう。私たちの、希望」


 マーリドは女を見つめたまま、我が子アマルの額を撫で、まだ生え揃わない髪に口付けを落とした。それからはもう、振り返ることはしなかった。


 マーリドは追っ手から逃げるため、赤子を抱いて砂漠を駆けた。一人であったならば、砂嵐にでも乗り易々と移動することができるのだが、半妖とはいえ子連れでは不可能だ。


 マーリドたちを追う人間の中に、優秀な退魔師がいるようで、いくら距離を離しても追っ手が途切れることはない。おそらく、マーリドたちの妖力をたどっているのだろう。


 高位の妖霊であるマーリドは他の下級妖霊とは異なり、その気になれば妖霊の気配をほとんど消すことができる。多くの妖力を注ぎ込めば、紫色の瞳すら隠すことができるはず。だが、腕の中の我が子は違う。生まれたばかりの赤子に、そのような器用なことができるはずはない。


 日中夜、マーリドは茫漠とした砂漠を駆ける。人よりも強靭な身体を持つとはいえ、休息もなく走り続ければ、疲労困憊となる。彼は朦朧とする意識の中、赤子を抱いて進み続けた。


 そして気づいた時には、アマルはほとんど動かなくなっていた。マーリドは、半妖の赤子が純血の妖霊ほどには強くないことを失念していたのだ。


 マーリドは妖力を駆使して完全な人間に化け、息絶えかけたアマルを連れて人の集落を訪れた。


「医者はいないか、いや、この子に乳を分けてくれる者はいないか。駱駝の乳でも山羊でも何でも良い。どうか、どうか」


 皆、最初こそマーリドを哀れみ手を差し伸べてくれるのだが、アマルの瞳が紫色を帯びていることを知ると途端に気味悪がって、家の戸を閉ざした。


 そうこうしているうちに、アマルはさらに衰弱した。そして、歩みを止めている間に退魔師に追い付かれ、気づけばマーリドは街の片隅で、敵と対峙していた。


「君が、総督の娘を誑かした妖霊か。なんと、マーリドだったとは」


 一目でマーリドだと見透かされたことに驚きを覚えたが、今はそれどころではない。相手が退魔師だろうが関係ない。悪魔にでも縋りたい思いなのだ。


「頼む、娘を助けてくれ。ぐったりして動かないのだ」


 退魔師は表情を動かさず、少し間を空けてから赤子に右手を伸ばした。アマルの頬を撫で、彼は呟く。


「総督の娘か。半妖とは哀れな」


 退魔師の小指にぎらりと光るものがある。何かの図像が彫られた鉄の指輪。あれは、娘に害なす物だ。マーリドはそう直観し、跳ぶようにして後ずさる。


 退魔師は右手を突き出した格好のまま、憐憫を帯びた声音で言った。


「残念だが、その子はもう息をしていない」


 指摘され、マーリドは赤子を包む布を半ば剥ぐ。気づけばアマルは息絶えて、ずっしりと重たいだけの肉塊となっていた。


「なぜ」


 辛うじて漏れた声は、自分でも驚くほど(ほう)けたものだった。退魔師は、マーリドよりもよほど悲し気な抑揚で続ける。


「人間の赤子は妖霊とは違う。炎天下、体温管理もせず、ろくに乳も与えなかったならばこうなるのは当然だ。神は人間と妖霊を同等のものとして創造し、同じ言語を授けた。だが、両者は似て非なるもの。決して相容れない。聞け、マーリド。その子を殺めたのは君自身だ」

「我が……?」


 結果的にはそうだったのだろう。しかし、赤子を抱えて砂漠を逃げ回らなければならなくなったのは、いったい誰のせいだというのか。半妖の子を一族の恥とみなした親族が、退魔師を派遣したからではないか。


「我らはただ、出会い愛し合い、慎ましやかな暮らしを営もうとしただけだ。それが悪だというのか」


 退魔師は静かな目でマーリドを見つめている。マーリドは、噛み締めた歯の間から、声を絞り出す。


「アマルは、何も知らず何もわからない赤子だったのだ。それなのに、ただ半妖として生まれたというだけで祓われるべき悪だったというのか」

「少なくとも」


 退魔師は平坦な口調で答えた。


「総督やその一族にとっては悪だった。ゆえに、私が派遣されたのだ」


 マーリドは、全身の血管に流れる炎が膨張し、皮膚を割って吹き出そうとするかのような昂ぶり覚えた。娘の亡骸を強く抱き締めて、退魔師を睨む。


「人間。貴様の名は何という」

「宮廷退魔師兼占星術師のスライマーン」


 個人の名など、マーリドにとって取るに足らない音の羅列だった。これまで、誰かに名を訊ねたことなどない。彼の中にあるただ一つの名は、アマルだけだった。


 しかし、眼前の男の名だけは、憎しみと共に胸に刻み付けようと思ったのだ。


「では、スライマーン、ここで消えると良い」

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