5 純血か否か①
マシュアルが去るのと入れ代わりに、目に見えて腰が引けた様子の少年宦官がやって来て、階段のすぐ横にパンの乗った平皿と水の入った革水筒を置いてそそくさと帰って行った。普段ならば遠慮なくお腹を満たしたい貧乏性のアマルだが、さすがに食欲が出ず、水を舐めるようにして喉を潤すに留める。
やがて、差し込む陽光が垂直を通り越して傾き始めた頃、再び開錠の音がして、アマルは約一日ぶりに地上へと連れ出された。
案内されたのは、宮殿の一室だった。建物の構造からすると、あまり奥まった位置にはないようで、おそらく来客を迎えるための部屋らしい。
庭に面した格子窓から、四角い光たちが白い石床にまだら模様を落としている。調度品は上質だが、ムルジャーナと王子の私室よりは質素だ。
その部屋の奥。壁際の長椅子の上に、青ざめた顔のムルジャーナが座している。すぐ横に立つのはアリ。首を巡らせて辺りを見回すが、二人の他に人はいないらしい。
「アマルちゃん。まさか君が妖霊だったとはね」
アリの低い声が、耳を打つ。柔和な口調ながら、その声は冷酷な響きを帯びていた。昨日までは友好的に言葉を交わしていたはずの青年の豹変ぶりに、アマルの全身をひんやりとした何かが這い回る。それは脳内にも侵食し、ぼんやりとした靄で思考を奪った。
アマルは絶望の中、ゆるゆると首を横に振る。
「自分が妖霊だなんて知らなかった。今だって、信じられません」
「でも、紫の火花が出たのは確かだ。人間にあんなことができるはずがない」
それを指摘されてしまえば、返す言葉がない。黙りこくるアマルに向けて、アリは詰問を続ける。
「目的は何だったんだい?」
「目的? 何の」
「マシュアル様に近づいた目的だよ」
「妖霊調査官がジーニヤーナ地方の妖霊たちを悪しき存在として聖王に報告しないか、心配だったんです」
「ちょっと敵対的な動機の割に、親密になったものだよね」
「それは」
「本当は、マシュアル様を通じて国の中枢に近づこうとしたんじゃないの?」
「違います! どうしてそんなことを」
「理由は君に訊きたいくらいだよ。実際、妖霊の悪戯って意図不明のくだらないものが多いでしょう。木登り少年を突き落としたり、腹に取り憑いて食事を掠め取ったり。あれ、マシュアル様の話ばっかりだ」
そういえば、金縛りに苦しむ顔をひたすら凝視されたり、壺に幽閉されたりするという事件もあった……などと緊張感に欠ける記憶が脳裏を過ったが、続いてアリが発した言葉により、全てが霧散した。
「とにかくさ、全部はっきりさせよう。ムルジャーナ様の女官を唆したのも君だったんだよね?」
あまりに突飛な思考に一瞬言葉を失ってから、弾かれたように顔を上げて返した。
「違う」
「動機はわかっている。あの女官が護符をいくつかだめにしてくれたおかげで、妖霊としては宮殿で活動がしやすくなったはずだ」
「あの人とは、昨日が初対面です」
「彼女はそうは言っていなかったけどね」
「卑怯です。どうせ、脅して認めさせたんでしょう」
それか、ただはったりを述べただけかもしれない。
「どうして僕がそんなことを。じゃあ、何で君は、正体を隠して宮殿に入り込んだんだ」
「隠してなんかいません」
アリは肩を竦め、小さくため息をついた。
「僕も大事にしたくはないからさ、正直に言ってくれないかな。幸い怪我人もいないし、今なら何事もなかったことにできる」
アリには、アマルの弁明を聞こうとする様子が欠片もない。微笑みの形に弧を描く夕日色の目。しかし、眼底から浮かび上がる光は友好とは程遠い、暗色だ。
その色に空恐ろしさを覚え、思わずぶるりと身体を震わせた。全身を刺すような不快感が過ぎ去ると、続いてアマルを支配したのは、腹の奥底から湧き上がるような憤りだった。
「嘘です。何事もなかったことになんてできない……いえ、するつもりはないですよね」
「陛下はハレムのことにはほとんど関与なさらないんだ。王族に危害が加えられたなら別だろうけど」
「そういうことじゃありません」
何を白々しいことを。アマルは拳を握る。
「あなたは、私を消したいんですね」
アリは表情を動かさず、飄々とした態度を崩さない。
「人聞きが悪いなあ。でも、君が悪しき妖霊なら、宮廷を守る占星術師としては、祓うしかないけどね」
「濡れ衣だろうと私を排除できさえすれば、アリさんには真相なんて関係ないんですよね」
「何を言っているんだ」
「だって、話を聞こうとしてくれないじゃないですか」
「それはさ、アマルちゃんが正直に話そうとしないからじゃないか」
堂々巡りになり、話が進まない。アマルは唇を噛み目を伏せた。これまでも、妖霊のような瞳を持つというだけで、数々の偏見にさらされてきた。この呪縛からは生涯逃れることができないのだろうか。
悟った途端、憤りが急速に衰えて、全身で脈動していた強烈な感情が勢いを失う。アマルは瞼を上げて、アリの瞳を見据えた。
「あの護符は」
「護符?」
我ながら、何の脈絡もない発言だ。しかし、言わずにはいられない。
「イフサーン王子の袖に縫い付けられていた護符です。あれは、私を消すために用意したものですよね」
アリの眉が微かに動く。しかし、彼はすぐさま表情を取り繕い、心外そうな顔をした。
「何を言っているのさ。あれは魔除けだよ」
「ただの魔除けではありませんでした」
「変なことを言ってこの場を逃れようとしても、逆効果だよ」
アマルは、いよいよ口を閉ざした。思考し言葉を選んで声帯を震わせるという行為の全てが億劫になり、首を振って音のない息を吐いた。もう、何を言っても無駄なのだろう。ならばいっそ、黙秘を貫き全てを放棄しようか。
妖霊になりきれず、人間から嫌悪されるこの身では、他者からの理解を得たいと望むことなど不相応な願いなのかもしれない。
アリがアマルを滅しようとするならば、好きにすれば良い。もし、情けをかけられて釈放されたとしたら、これまでと同じようにスライマーンと共に、砂漠の端でひっそりと暮らそう。
しおらしく俯くアマルを見て、観念したと思ったのだろうか。アリがやや語気を緩めて言った。
「さあ、認めるんだ。君は妖霊で、なんらかの理由で聖国に害をなそうとしている。まずは宮廷に堂々と入り込むため、妖霊調査官に近づいた。さらに、第二夫人付きの女官を丸め込み、魔除けの護符をいくつか壊すように仕向けた」
アリの夕日色の瞳に吸い込まれそうだ。鼓動が大きく鼓膜に響く。規則的な脈動と共に、視界が渦巻くように回っている。アマルは何かに導かれるかのように、唇を開く。
その時だ。
「アマル、騙されるな。情けないことに、おまえは今、護符術にかけられている」




