2 ナツメヤシの種を投げると
「ムルジャーナ様、しっかりなさってください」
青年となったアリの低い声で、回想から引き戻される。
ゆらめく燭台の火が錦の壁掛けを赤く揺らしている。ぼんやりとした光を弾く金の杯や銀の小箱が朱色に煌めいている。
宵闇に浮かぶ宮殿の一室にて。
マシュアルとアリ、ムルジャーナの三人は、重苦しく沈澱する空気を押し除けるようにして、言葉を交わしていた。
壁に沿って備え付けられた腰掛けに蹲るようにして俯くムルジャーナの足元に膝を突き、彼女の手を撫でるのはアリだ。
「イフサーン王子は妖霊に憑かれていませんでした。心配事が一つ消えたのですよ。あなたが信頼していた女官が裏で糸を引いていたとはいえ、それは敬愛するあなたを思ってのことです」
「イフサーンをここまで追い詰めてしまったのは私の責任よ。母親失格ね」
そう、踊り狂う王子が足を止めた後、事態はまるで氾濫したイシュラ河のような怒涛を見せた。
まず、アマルが突如として苦しみ始め、妖力の発露である紫色の火花を放った。つまり彼女は妖霊、もしくは半妖だったということだ。
宮廷に妖霊を招き入れるなど、異例のこと。ましてやアマルは、己が妖霊であることを隠していた。もしかすると、聖国に害なす意図でマシュアルたちに近づいたのかもしれない。真意は定かでないにせよ、危険分子を自由にしておくわけにはいかないというアリの一言で、アマルは今、宮殿の地下に囚われている。
そのアマルが、衛兵に連行される直前に、事件の主犯を告発した。ムルジャーナの側付きである赤髪の女官が、王子に妖霊憑きを装うよう進言したのではないかというのだ。
本来であれば、素性の知れない妖霊の言葉になど取り合わない。だが今回は、良心の呵責に苛まれたイフサーンが涙ながらに真相を語ったため、事件の全容が明らかとなった。
王子は妖霊憑きを装っていた。最盛期よりも第二夫人母子への寵が薄れたことを儚んだイフサーンは、自身の世話役でもある赤髪の女官にその思いを吐露していたらしい。
相談を受けた女官は、敬愛する主人と王子の未来をより輝かしいものにするため、浅知恵を練った。イフサーンに妖霊憑きのふりをするようにと助言し、自らは宮殿内の護符に細工をすることで、第一夫人ヤサミーンの差し金と見せかけ貶めようとしたのだ。
結果的に、王子と第二夫人を心配した聖王は妻子の元へと通うようになり、第一夫人へ嫌疑がかかるより前に、目的は達せられることとなる。
全ては順調だったのだ。彼らの計画を打ち壊す者、アマルが現れるまでは。
夕刻、イフサーンが突然中庭で踊り始めたのは、アマルにより「妖霊は去った」と宣言されてしまえば父王の関心が再び薄れてしまうのではないかと不安を抱いた末のことだった。
まさか、いとも簡単に、妖霊がイフサーンを狂わせているのではないと見透かされてしまうとは、彼も思わなかったのだろう。
何と浅慮なことだろう。マシュアルは胸の奥にざわざわと這い回る不快なものを感じ、浅い呼吸を繰り返した。
いったい何に苛立っているのだろうか。マシュアルは、未だに混乱を抱えたままである。
しばらく、家族同然のアリとムルジャーナが身を寄せ合う姿を眺めてから、マシュアルは低い声音で言った。
「ムルジャーナ様、私はそろそろ失礼させてもらいます。アマルの処遇のことも考えなくてはいけませんので」
「陛下に報告をするの?」
ムルジャーナの瞳に、不安が過る。マシュアルは苦笑して肩を竦めた。
「ことの重大さ次第です。ハレムのことはハレムで解決せよ、というのが聖王の方針ですからね、まずは考えをまとめてみます」
ムルジャーナは物憂げなため息とともに、そう、と呟きを落とした。
部屋を辞したマシュアルは、宮殿内にあてがわれた自室に戻る。卓上にある銀の平皿の上からナツメヤシを鷲掴み、齧りながら窓枠に寄りかかって、闇に沈む中庭を眺めた。ほんの少し前、王子が踊り狂う騒動があった場所だ。
このことが聖王に知られれば、王子やムルジャーナへの心証は悪くなるだろう。ハレム内でのいざこざを解決し取りまとめるのは、本来ならば王の母である母后の役目だが、あいにく身罷って久しい。
それならば聖王の妃であるヤサミーンやムルジャーナが管理すべきなのだが、今回の事件において当事者である彼女らは難しい立場にある。そうなれば、次に頼るべきはハレムの管理責任を持つ宦官長か。
王子が妖霊憑きを装ったこの事件により、死者はおろか怪我人の一人も出ていない。騒動の原因はイフサーン王子の子供らしくいじらしい願いだったのだし、あえて騒ぎ立てる必要はないと思えた。しかし。
「アマルは本当に妖霊だったのか?」
もしそうだとすれば、彼女が聖国に害をなす存在なのかどうか調査しなくてはならない。アリが星占で見たという災禍の星とアマルが関係している可能性もある。
今さらながら、思い返せば妙だ。アマルは出会いの日、マシュアルを監視していたようだった。面が割れてからはマシュアルに居候を許し、妖霊調査への助力を申し出てくれた。その動機についてアマルは、ジーニヤーナ地方の妖霊が悪だと思われてしまわないようにするためだと言ったが、他にも何か思惑があったのではなかろうか。全てが策略ならば、情けをかける必要などない。
一方で、彼女に悪意がなかったとしたら。
アマルを宮廷に連れて来たのはマシュアルだ。アマルが冤罪により処罰されることがあれば、それはマシュアルのせい。
そもそも、アマルが妖霊だとすると辻褄の合わないことがある。
あの時アマルの全身から発せられた紫色の火花はたしかに、妖霊の魂から生まれる妖力の発露だった。だが、アマルは以前から、妖霊が嫌う柘榴の枝を頻繁に抱えていた上、退魔に使う塩も鉄も問題なく鷲掴みにしていた。これはいったいどういうことなのか。
「……わからん」
マシュアルは呻いてナツメヤシの実をもう一齧りした。前歯が種に当たり、不快な音が頭蓋に響く。むしゃくしゃして窓の外に種を投げようとしたが、ここは宮廷だ。思い直して室内に身体を向け、種入れの深皿に向かって投げた。その時だ。
「ちょっとちょっと!」
ナツメヤシの種の軌道が窓辺と深皿の中間辺りでぐにゃりと歪み、突然空中に紫色の火花が散った。種が床に転がるのと同時に、火花が生じた辺りの空気が収斂し、血色の悪い紫がかった肌色をした女が現れた。
「おまえは」
瞠目しながら、マシュアルは言った。
「ぎょろ目!」
そう、この顔を忘れるはずがない。ジーニヤーナ地方滞在四日目の野営地で、危うく彼女に食われかけたのだ。
妖霊は大きく飛び出した眼球をぎょろりと回し、まなじりを吊り上げた。
「危ないでしょ! 何であんたはすぐ種を投げるのよ。しかもいつもあたくしに向かって真っすぐ投げるのね。本当は見えているんじゃないの?」
「いつも?」
「この前、アマルに怒られていたでしょ。あの時も、あたくしの顔面に種が直撃しそうになったの」
「ああ」
マシュアルは混乱しつつも、以前アマルの家の軒先で種を投げて「危ない」と窘められたことを思い出す。つまり、あの時の種は妖霊にぶち当たりそうになっていたということか。そして今回はとうとう直撃してしまった。いや、それよりも。
「なぜここにぎょろ目がいるんだ」
「あたくしの名前はギャナ・ロメ・ヌールハ・アヤよ。勝手に略さないで!」
「いや……そうか、悪かった。ぎょ、ギャナ・ロメ……」
「ギャナで良いわよ」
「ではギャナ。混乱しているんだが、君はどうしてここにいるんだ。砂漠の洞窟に住んでいるはずだろう。それに、防魔の護符は恐ろしくないのか」
「決まってるじゃない。可愛い男を見つけたら追いかけたくなるものでしょ。護符を持っているのはお偉いさん方だけだし、王族に近づかなければ大丈夫よ」
いったいいつどのような場面まで覗かれていたのだろうか。背筋がぞわりとした。やはり、妖霊と関わるとろくなことにならない。
「それに、アマルが心配だったの。あの子世間知らずだから、どろっどろの人間世界で騙されたり利用されたりしないかしらって」
「捕らえられることになったのも、案の定ということか」
ギャナは頷いた。
「ねえあんた、ぼさっとしていないで早くアマルを解放してあげてよ」
「だが彼女は妖霊だろう。まずは聖国への害意がないことを証明しなければ」
「はあ、妖霊? そんなわけないでしょ」
ギャナはいっそう目を剥き出し、上体を突き出すようにしてマシュアルの鼻先に迫る。
「柘榴の枝を持ち歩く妖霊がどこにいるのよ」
「ではアマルから出た紫の火花はいったい何だ」
ギャナは口を閉ざし、マシュアルをじっと見つめる。やがて、何やら逡巡する間を空けてから言った。
「ま、複雑な事情だからそれはスライマーンから聞きなさいな」
「スライマーンの居場所を知っているのか?」
「もちろん」
「連れて行ってくれ」
間髪を入れずに頼めば、ギャナは胸を張る。
「ふふん、その調子でもっとあたくしを頼りなさい。その代わり、今度あたくしのお家に来てくれる? 楽しいことをしましょうよ」
「考えておく」
マシュアルは受け流し、上着に袖を通した。
「つれないのねえ。まあ良いわ。アマルは友達だからなんとかしてあげたいし、哀れなスライマーンに恩も売れるから」
「哀れ?」
「スライマーンは昔、実子を人間のせいで亡くしてしまったの。その代わりにアマルを育てているのよ」
マシュアルは思わず、身支度の手を止める。驚きを露わに視線を向ければ、ギャナの大きな目に憐憫が過った。
「人間の手によって二度も子を喪ったらやりきれないでしょ」
そうなればスライマーンは復讐心に駆られ、聖国にとっての災いとなるかもしれない。




