13 彼女の正体は
マシュアルの腹の妖霊は、約三人前の食事を掠め取ったところで去って行った。その後、マシュアルがようやく自身の胃に食べ物を詰め込み終わった頃には、日差しは夜に向けて傾いて、西の空が赤みを帯び始める時刻となっていた。
三人で六人分の食事をとったアマルたちに唖然としている店主に代金を支払い、一行はそそくさと繁華街を出て、街の中央部に屹立する、緑色の円蓋をいただく宮殿へと戻った。
出迎えてくれた小姓は、アマルたちの姿を目にするや否や、安堵と苛立ちの入り混じった表情で息を吐き、捲し立てるようにして言った。
「ああ、やっとお戻りで。大変です。殿下がまた妖霊に憑かれてしまって」
アマルは全身から血の気が引くのを感じ、肩にかけていた荷袋を胸に抱え直す。袋から飛び出ている柘榴の葉が、頬を撫でた。枝葉の香りを嗅ぐと、途端に気持ちが引き締まる。
「王子のところへ連れて行ってください」
小姓は即座に頷いて、アマルたちを先導した。案内されたのは、宮殿の中庭である。
国中から集められた珍しい種類の木々が生い茂り、水生の花が浮いた池には噴水が設けられている。放し飼いにされた孔雀の羽が一枚水面に浮いており、絢爛な宮殿にいっそうの彩りを添えている。
その水辺のすぐ側で、イフサーン王子が踊っていた。肌が粟立つほど、奇怪な光景だった。
斜陽に照らされたイフサーンの横顔は陰になり表情が読めない。アマルは、息を詰めて見守る第二夫人ムルジャーナやマシュアルたちを背に、王子の側へと歩み寄る。
「殿下」
声をかければ、ぴくりと反応がある。だがそれも、もしや見間違いかと錯覚するほど一瞬のことで、イフサーンは四肢を振り乱しながら何事もなかったかのように踊り続けた。
規則性のない足の運び、まるで駄々をこねる幼子のように行ったり来たりする腕の軌跡。一見して、妖霊に憑かれて踊り狂っているように見える。だがアマルは、違和感を覚えた。
「イフサーン殿下」
もう一度呼びかける。赤い陽光を受けた王子の新緑色の瞳が力強く煌めいて、アマルの青紫色の瞳を捉えた。間違いない。彼自身に意志がある。誰かに操られている様子はない。
アマルは王子の目を見て、己の感覚が正しいことを確信した。だが、それならばどうして。
「アマル、どうなの? イフサーンは」
ムルジャーナの震える声が、背中を撫でた。アマルは緊張に唾液を嚥下して、振り返る。
「ムルジャーナ様、これから申し上げることをお許しください」
空気を切り裂くような鋭さで、ムルジャーナが息を呑む。やがて、蒼白な顔で頷き、続きを促した。
「言って」
アマルは瞑目し、呼吸を整えた。この場にいる誰よりも、アマルが一番青い顔をしていることだろう。妖霊に憑かれたというイフサーンよりもずっと。
「イフサーン王子は」
アマルは瞼を上げて、柘榴の枝を握り締めた。
「憑かれてはいません」
「な……、王子が気狂いだとでも?」
「わかりません。でも今は、妖霊に憑かれていないんです」
「では、以前憑いていた妖霊のせいで狂ってしまったの? だから、解放されてもあんな」
「これは推測ですが」
アマルは、これまでに不審を感じていた事象たちがあるべき場所に収まって、一つの意味を成していくのを感じた。
「妖霊は最初からいなかったのでは? そもそも、護符をはじめ妖霊への対策が厳重な宮殿内ですよ。王子が憑かれるなんてこと、起こるものでしょうか。最初からいなかったと考えるのが自然です」
「いや、でもアマルちゃん」
アリが、眉根を寄せて言う。
「現に王子はああして」
アマルは頷いて、イフサーンに向き直る。王子は今も四肢を振り回しているが、その瞳には誤魔化しきれないほどの困惑、つまり自我が宿っていた。妖霊に憑かれている者は、このような目はしない。
「イフサーン王子、もう演技はしなくて大丈夫です。事情を教えてください、私が、悪いことにならないよう、皆さんを説得しますから」
「おい、アマル。それはさすがに」
「マシュアルさん、そう考えるのが一番自然なんです」
一度腹を括ってしまえば、言葉は濁流のように流れ出して止まらない。
「もしかしたら、と思っていることがあります。遊牧民の集落で出会ったナジュワさんを覚えていますか。彼女は、家族と共に過ごすため、父親を妖霊憑きにしました。あの時と同じです。王子が妖霊に憑かれると、都合が良いんです」
「誰の都合だ」
「全てを企んだのがハレム内の人物だとしたら、王子を害することで最も利益があるのは第一夫人ヤサミーン様に思えます。ですが実際は違う。この騒動で一番得をしたのは第二夫人ムルジャーナ様です」
「私?」
「ムルジャーナ様はおっしゃいましたよね。王子が妖霊に憑かれたことで、陛下の関心がご自分たち母子に向いていると」
ムルジャーナは困惑げに頷く。アマルは続けた。
「それと、先ほど殿下のお部屋で見つけた護符の図像は、雑に綻ばせてありました。どう見ても素人仕事です。あえてそう見えるように装ったんだと思います。護符術に関する知識に乏しく、防魔の図像に傷を付けても反動から身を守ることのできる術がある人物の仕業と見せかけるために」
「つまり」
ムルジャーナが落とした呟きに、アマルは頷き、再びイフサーンを見た。
「この騒動を起こそうとした人は、第一夫人が王子を害したと見せかけたかったんでしょう。イフサーン殿下、そうではありませんか?」
王子の動きが鈍化する。聖王の子とはいえ、幼い少年だ。動揺を隠せない目が泳ぎ、やがて観念したように足が止まる。くるくると回っていたものだから、眩暈がしたのだろう。王子はその場に倒れ込むようにして膝を突いた。
「イフサーン!」
ムルジャーナが息子に駆け寄る。母の腕に抱かれたイフサーンの頬に、一筋光るものが見えた。王子は、泣いていた。
「イフサーン、アマルが言うことは本当なの?」
イフサーンは答えず、ただ首を横に振る。
アマルは母子の様子を眺め、無意識に柘榴の葉を引っ張りながら思考を巡らせた。推測が正しかったと仮定して、いったい誰の入れ知恵でイフサーンはこのような愚行に及んだのか。
もちろん動機はある。多くの側女を抱える父に、母と自分だけを見て欲しいと願ったのだろう。しかし、幼い王子が一人でこのような策を練ったとは考えづらい。
すると、ムルジャーナか。だがしかし、取り乱した彼女の様子を見るに、その線は薄そうだ。それであれは、いったい誰の仕業だろう。ムルジャーナへの寵愛が増し、王子が次期聖王となって利を得るのは誰か。
いや、そもそも妖霊騒動ならば、宮殿に退魔師が呼ばれることは明白だ。そして、まともな退魔師ならば王子に妖霊が憑いていないことくらい、すぐに見抜くだろう。穴だらけの稚拙な策を取った理由は、ただの軽率か。それとも、発案者が退魔師の能力に無知だったため、見過ごされてしまったのだろうか。
「僕は」
しゃくり上げながら、王子が声を漏らした。皆の視線が一点へと向かう。
俯き、自身の膝の辺りへ視線を落としているイフサーン。細い両肩が震え、芝生を掴んだ手のひらがぎゅっと握り締められた。繰り返される嗚咽はひどくなる一方だ。このままでは、呼吸の波が崩されて、過呼吸となり倒れてしまうのではないかと心配になる。
尋常ない様子に、少し離れた場所で控えていた赤髪の女官がムルジャーナたちに駆け寄った。動転した彼女の横顔を目にしたアマルはふと、最後の欠片があるべき場所に収まったような感覚がした。
そうだ、第一夫人を貶めることで利があるのは、聖王の寵愛を争う第二夫人ムルジャーナ。王子に演技を唆した者がムルジャーナ側の人間だと仮定する。その者は護符術の基礎を知っていたが、退魔術については深く知らなかった可能性が高い。そして、第二夫人と王子の私室に入っても見咎められることのない立場にある。
たどり着いた仮説に、アマルは全身に静電気が迸るような錯覚を覚え、柘榴の枝を腹の辺りまで下ろして女官の方へと歩み寄る。その瞬間。
「あの女、嫌いだ!」
王子の口から、憎悪に染まった言葉がアマルへ向けて飛び出した。
投げつけられたのは罵声だけではない。
「え」
アマルへ突き出された王子の袖口から赤い刺繍が覗き、思わず声が漏れる。護符だ。しかし、防魔のそれではない。もっと邪悪で、妖霊を強く攻撃し、排斥する性質の……。
不意に、心臓が大きく跳ねて、アマルは胸を押さえる。喉が押し潰されたかのようになり、呼吸がままならない。アマルはその場で蹲り喘いだ。
「どうした!」
すかさずマシュアルが駆け寄り、アマルの肩を支えようとした。しかし叶わない。指先が触れる直前、アマルの身体から紫色の火花が散ったのだ。
弾かれたように手を引くマシュアルを、アマルは苦痛で浮かんだ涙に歪む視界の端で捉える。やがて、心臓が再び規則的に動き始め、気道が解放されて全身の血流が正常を取り戻してからやっと顔を上げた。
「いったい何が……」
「紫の火花。まさか」
アリの驚愕の声が頭頂へと降り注ぐ。アマルは蹲ったまま、赤い陽光を背負う巻き毛の青年を見上げた。
「まさかアマルちゃん」
アリは瞠目したまま、決定的な一言を発した。
「君は妖霊だったのか?」
第三話 終




