12 憑かれていますが、とりあえず情報整理をしましょうか②
マシュアルは手を止めて、アマルを凝視した。灰青色の瞳に驚きが過ったがすぐに消え、うんざりとした色が浮かぶ。
「祓ってくれ」
「私は仲裁人ですよ」
「じゃあ俺から離れるように言ってくれないか」
「はい。だからご飯を食べに行きましょうって誘ったんです」
怪訝そうなマシュアルの腹部を、アマルは指し示した。
「多分、お腹に妖霊が憑いています。悪い子じゃないみたい。きっと、ただ単にお腹が空いただけなんです。マシュアルさんは今、食べても食べても空腹が治まらないでしょう? それは、妖霊が食べ物を掠め取っているからですよ」
だから、お腹いっぱいになれば自分から出ていくはずです、と告げたアマルに、何とも形容しがたい渋面を向けてから、マシュアルは嘆息した。
「太るだろう」
「大丈夫ですよ。妖霊がほとんど食べてくれますから」
「それ、いったいどういう仕組みなんだ」
マシュアルはぼやき、すっかり皮が剥がれた柑橘に目を向けてしばらく見つめてから、吹っ切れたようにかぶり付いた。
卓に肘を突いて一連のやり取りを眺めていたアリが、心底面白そうに口元をひくつかせる。
「マシュアル様は昔から妖霊に縁がありますよね。いつか受難記でも書いたらどうです」
「昔、ですか。……そういえば、アリさんとマシュアルさんは子どもの頃からのお知り合いなんですよね」
「うん。僕の師匠と、マシュアル様のお父君は古くからの友人だったんだ。師匠はムルジャーナ様の実父でもあるから、僕ら三人は旧知の仲だ。それと、恐れながら陛下も年齢が近くてね、幼少の頃から僕らを気にかけてくださって」
「光栄なことに、陛下を入れた俺たち四人は幼馴染のようなものなんだ」
「へえ! 良いなあ幼馴染。憧れます。アリさんたちは、どんな幼少期だったんですか」
「そうだねえ、たとえばマシュアル様のお父上は奴隷身分出身の将軍なんだけど、一人息子が生まれたときにはすでに高官だった。つまりマシュアル様は生まれつきの貴人のはずなのに、飾らない性格のお父上の影響か、少し庶民的なところがあるんだよ。だから、占星術師の卵といっても奴隷身分の僕にとっては、他のご令息よりも親しみやすくて。……ほら、マシュアル様。ナツメヤシを採るために一緒に木に登りましたね。名家の嫡男は普通そんなことしませんけど」
「あ、もしかして妖霊に落とされたやつですか?」
「何だ、もうアマルちゃんに話していたんですか」
マシュアルが、ちょうどナツメヤシを口に運ぼうとしていた手を止めて、苦い顔をする。
「まあ、話の流れで」
「マシュアル様、あれからしばらく、ナツメヤシの木を見る度に不機嫌になりましたよね。骨折もしたし」
「マシュアルさんが、食後にナツメヤシの種を投げたがるのもそういう理由ですか」
「女性の前で、そんな行儀悪いことをしたんですか」
「闇雲に種を投げるのは危ないんですよ」
「そう、アマルちゃんの言う通り。今後自重してください、マシュアル様」
結託したように左右から責め立てられて、マシュアルはナツメヤシを皿に戻し、代わりに水を飲んだ。
「たかが種が何だよ。……とにかく、俺とナツメヤシの話はもう良いだろう。自分の話をしろ、アリ」
「はいはい」
アリは肩を竦めてから、斜め上方をぼんやりと見て回顧した。
「僕は奴隷出身で、ムルジャーナ様のご祖父に買われて退魔術の弟子になった。結局、妖霊に対して人より鈍感だった僕には才能がなくて、退魔術じゃなくて占星術を教わることになったけどね。どちらにしても、大師匠のおかげで僕は生まれにそぐわないたいそうな地位を得ることができたんだ」
「はあ、お師匠様は退魔師だったのに、占星術も教えることができるほどの方だったんですね」
「そうだね。大師匠――ムルジャーナ様のご祖父は誰もが認める天才だった」
「その、お師匠様は今どこに?」
アマルの問いかけに、アリは悲しげに眉尻を下げた。
「十年ほど前に行方不明になってしまったんだ。当時、宮廷の職位を返上して隠居生活を始めたばかりだったんだけど、どうも屋敷でじっとしているのが落ち着かなかったようでさ。時々退魔の道具を持って国中を放浪していたみたい。行く先々で、悪事を働く妖霊をほとんど無償で祓って回ったようだよ」
そしてその道中、ぱたりと消息を絶ったらしい。
十年前、旅の高齢退魔師。記憶の片隅にある一人の老人の姿が眼前に浮かび上がるようで、アマルは、もしかして、と控えめに口を開く。
「その人、会ったことがあるかもしれません」
アリが、やや大仰に眉を上げる。期待させ過ぎてはいけないと思い、アマルは慌てて両手を顔の前で左右に振った。
「あ、いえ。別人かもしれません。でも、十年くらい前、似た風貌のおじいさんとお話しました」
「どんなことを話したの?」
「当時から私、スライマーンと二人暮らしだったんです。でもおじいさんには、それが歪な関係に見えたみたいで。人間の子が妖霊に育てられるなんて、あってはならないことだと言って、私を円城都市に連れて行こうとしました」
「でもアマルちゃんは、街に来なかった」
アマルが頷くと、アリは乗り出していた上体を少し背中側に戻して訊ねた。
「それで彼は、どうなったんだい?」
「残念ながらそれきり会っていません。私が、スライマーンと離れるのを嫌がったから」
「……恨んだことはないの? 妖霊に育てられたからこそ、嫌な思いもしただろう。人間に拾われていれば、普通の娘らしい暮らしができたのに」
想定外の言葉にアマルは息を呑み、静かな微笑を湛えたアリの顔を見つめた。
「恨みだなんてあるわけないです。捨てられていた私を拾ってくれたのはスライマーンですし、彼がいなかったら生きていませんでした」
「本当にアマルちゃんを助けたかったなら自分で育てずに、子のない人間の夫婦にでも預ける方がよっぽど賢明だと思うけどね」
「それは」
誰が何を言おうと、スライマーンは大切な家族だ。しかし傍から見れば、奇妙な関係性であることは間違いないのだろう。あの時の老人も、同様に感じたに違いない。
言葉を失うアマル。しばらくして、軽い咳払いと共にマシュアルが口を開いた。
「過去のことはわからないが、今スライマーンがアマルを大切に思っているのは確かだろう。後は当人同士の問題だ」
やや窘めるような調子を帯びたマシュアルの声に、アリがはっとしたように息を吸い、亜麻色の巻き毛を掻いた。
「確かにそうですね。アマルちゃん、変なことを言ってごめん。実はさ、何とびっくり、大師匠の名前もスライマーンなんだ。だから色々と思い出されて、感傷に浸ってしまったのかもしれないな」
「お師匠様も?」
「妖霊と退魔師が同じ名前だというのも因果だよね。……さあさあ、とりあえず食べようか。マシュアル様、お腹の調子はいかがです」
「いっこうに膨れない。アマル、どうにかしてくれないか」
話を振られ、アマルはぎこちない笑みを浮かべた。
「ええと」
胸の奥に砂塵のような靄がかかっているが、その正体がわからない。
目の前では、マシュアルとアリがアマルの言葉を待っている。ただでさえ妖霊のような瞳を持ち、人から避けられがちなのだから、その上陰気にしていては、やっとできた友人まで失いかねない。アマルは深呼吸して気持ちを切り替え、無邪気を装った。
「もうちょっと食べてください。ほら、私のお肉もあげますから」
「後から胃がもたれそうなんだが」
「大丈夫ですよ! マシュアルさんの胃にはほとんど何も入っていないので」
「だからそれ、どういう仕組みなんだ……」
「マシュアル様、妖霊に鈍感なくせに細かいことを気にしすぎです。いやあ、それにしてもやっぱり、あのマシュアル様が、ムルジャーナ様以外の妙齢の女性と親しげにするのを見る日がくるなんて、感無量です」
「妙齢のって。だってアマルだろう」
「わあ、それって、親しみやすいってことですよね。えへへ、嬉しいです」
「アマルちゃん、そこは普通怒るところ」
賑やかな繁華街の一角にある飲食店。不意に隣の席から、明るい歓声が上がった。深刻な空気は、談笑に吹き飛ばされて、砂埃と共に水色の空へと散っていく。
円城都市は人の営みに彩られて煌びやか。アマルが憧れた、人間たちの世界がすぐそこにある。
清々しい昼下がり。ここに養父の黒い毛並みが寄り添っていてくれたならば、いっそうの幸福感に包まれただろうにと、思わずにはいられなかった。




