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妖霊調査官の受難記 ~砂漠に昇る災禍の星~  作者: 平本りこ
第三話 妖霊調査官と大きな声では言えない依頼人 

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10 王子の背中を叩くんですか?②

 一言断りを入れてから、アマルは枝でイフサーンの両面を交互に撫でた。


 常ならば、二、三往復すれば、耐えかねた妖霊が飛び出してくるのだが、この時は何も起こらない。ただ、イフサーンの顔面から次第に血色が失われていくだけだ。当然、柘榴の枝には、人間から生気を奪うような特性はない。


 アマルは最後に枝を一往復させてから、一歩後ろに下がり商売道具を抱いて軽く頭を下げた。


「終わりです」

「それで、どうなのアマル。息子から妖霊は離れていきそう?」

「いえ、ムルジャーナ様」


 アマルは混乱しつつも、確信を持って告げた。


「妖霊はいません。少なくとも今は」

「出たり入ったりするものなのか?」


 絶句するムルジャーナに代わり言ったマシュアルに首を振り、アマルは答える。


「出入りすることはあります。でも」


 胸に一つの可能性が浮かんでいるのだが、口にすることは憚られた。一歩間違えば、大変な侮辱と捉えられ、取り返しのつかない事態を引き起こしかねない。慎重に判断せねばならない事案だ。


 アマルは、どうしたものかと困惑し、マシュアルに視線を投げる。彼は目顔で発言を促すが、その手がしきりに胃部を摩っていることに気づき、意識を持っていかれた。


 少なくとも今は、妖霊は王子に憑いていない。むしろ憑かれているのは。


「とにかく、妖霊は去ったということだね」


 答えないアマルに痺れを切らせたのか、アリが口を挟み、アマルの思考は中断される。


「そもそも僕ら占星術師は、王子の近辺に防魔の護符を用意していた。もしかしたらそのおかげで妖霊が逃げたんじゃない?」


 しかし、ムルジャーナは首を振る。


「それが正しいとしたら、アマルが来るまでは護符があまり効いていなかったということ?」

「……護符の図像は、断ち切られていました」


 思わず呟くと、部屋中の目が一気に集まり、アマルは枝葉に顔を埋めるようにして少し縮こまった。


「あ、いえ。さっきムルジャーナ様にはお話ししたんですが、お妃様と王子のお部屋にある護符は傷付けられていたので、効力はなかったと思います。妖霊が去ったのと護符は多分関係ありません」


 アマルは第二夫人と王子の私室で見た護符への冒涜のことをマシュアルたちにも説明した。全て聞き終えると、アリが憤然とした様子で言う。


「僕がマシュアル様を迎えに行く前に確認した時は、妙な落書きなどなかったと思うけど。どちらにしても確かに、妖霊自身が護符を壊そうとして近づくのはおかしいな。退魔の術に干渉できるほど高位の妖霊であれば、そもそも護符に落書きなんてしなくても殿下に取り憑けるだろうし。こうなると、人の仕業なんじゃない? しかも、赤で描くべき図像に黒で線を書くというのが良くない。取り扱いを間違えれば術師にすら牙を剥く護符を、近くにあったペンで適当に壊すような感性からすると、きっと護符術の心得がない者の仕業だよ」

「人間の仕業だとして、あの線を書いた人は無事なんでしょうか? 反動で体調を崩していないと良いんですけど」


 葉の間から発せられたアマルの声に、アリが唸る。


「通常なら、ただでは済まないだろうね。でも、対策をしていれば別だよ」

「対策?」

「たとえば、(よこしま)なるものを弾く護符を常に身に着けているとか、事後に清めの儀式を行うとか」

「そういうものなんですね」


 護符術をはじめ神秘を扱う術に関する知識の基礎はスライマーンから教わったが、アマルにとっては所詮専門外だ。


 いよいよわけがわからない。いったい誰がなぜあんなことを。


「第一夫人よ」


 ムルジャーナが低い声で言う。今度は一同の視線が第二夫人へと集まった。


「彼女しかないわ。妖霊騒ぎがあってから、王族は身を守るための護符を持ち歩いているもの」


 ムルジャーナは薄紅の左袖を逆の手で握った。布地の裏には、退魔の図像が刺繍されているはずだ。彼女は形の良い眉を怒らせながら続けた。


「そもそも、傷付けられた護符が見つかった私たちの部屋はハレムの奥にあるのよ。入ることができるのは、女官や宦官の一部、あとは王族だけ。私は時々、女官たちの前で護符術のことを話題にしているから、第二夫人付き女官はみんな、図像を描く色に決まりがあることや、ましてや星の力が込められた護符を傷付けたらただでは済まないことくらい知っているわ」


 目顔で同意を求められ、例の赤毛女官がこくこくと頷いた。


「それに第一夫人ヤサミーンには、動機がある。陛下の寵愛を受ける私たちを妬んでいるの。王子に万が一のことがあれば彼女にとっては都合が良い」


 確かに筋が通っているのだが、アマルは微かに違和感を覚えていた。どこか、鍵を掛け違えているような、腹の奥底がむず痒く落ち着かない感覚だ。アマルは思わず片手で腹部を撫でた。そういえば、この場にはもう一人、腹を摩る者がいる。


「では、まずはヤサミーン妃の近辺を調査するのが得策だろうか」

「いえ、マシュアルさん。少し待ってください。お妃様を疑って、万が一にでも間違いがあったら大変です」


 アマルは、胃部に手を置いているマシュアルへ向けて言った。


「慎重な判断が必要です。皆さん、いったんこの場を離れて考えませんか? それで、とりあえずマシュアルさんは、私と一緒にご飯を食べましょう」

「……は?」


 至極もっともな発言の後に続いた突拍子もない言葉に、束の間場の空気が固まった。しばらくの無音の後、それは次第に緩んで解ける。マシュアルの頬に少しだけ朱が差している。


「君は……こんな時に何を」

「お腹が空いては何事も捗りません」

「俺は別に腹など」

「ふふっ、良いじゃない」


 不意に、ムルジャーナが小さく笑った。いくらか気が安らいだようで、先ほどまで全身から発せられていた、張りつめた憎悪の色が薄れている。


「アマルの言う通りだわ。慎重を期するべき事案だもの。私も、憶測だけで断定するようなことを言ってしまって恥ずかしいわ。マシュアルたちも長旅で疲れているでしょうし、街で休憩をしたら?」

「ああ、じゃあ僕もご一緒に」


 アリが快活な声で言うので、アマルは顔を隠すために掲げたままだった枝を下げ、大きく頷いた。


「はい。ぜひ」


 アリも空腹を覚えていたのだろうか。いずれにしても、ムルジャーナの言う通り、旅の疲れも癒えていない。三人は宮殿を辞し、意気揚々と繫華街へと繰り出した。

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