9 王子の背中を叩くんですか?①
わかっていたこととはいえ、宮殿は広い。ムルジャーナは迷いなく階段を上り下りして角を曲がるのだが、アマルにとっては迷路のようだ。少し歩いただけで方向感覚を失って、もう一度ハレムに戻れと言われたとしても、不可能だろうと思われた。
やがて、すれ違う人々が、宦官と女官から役人や小姓に変わり、聖王のおわす区画に近づいたのだと知れる。
ムルジャーナは長い廊下の一角で立ち止まる。目線の高さに作られた格子窓から内部を覗き込み目元を和ませてから、第二夫人の訪れを告げるようにと扉番に命じた。
すぐさま口上が響き、心の準備もできないまま両開きの木製扉が開く。同時に、快活な幼い少年の声がした。
「母上!」
部屋の奥に敷かれた絨毯に座り、文机と向き合っていた少年が腰を上げ、扉の方へと駆け寄って来た。
ムルジャーナは幸福を滲ませた柔らかな表情で腕を広げ、息子を抱き締める。見る者の口元も思わず綻ぶような、心温まる光景だった。
「ムルジャーナ様」
続いて、文机の辺りから聞き慣れた声がして、アマルはあっと声を漏らした。
先ほどまで王子が座っていた場所のすぐ横で恭しく頭を垂れている黒い頭髪の男は、マシュアルだ。
「あら、マシュアル。今日はあなたがイフサーン王子の師なの?」
マシュアルは苦笑を浮かべ、礼の形に傾けていた頭を起こした。
「師というほどのものではありません」
「だって久しぶりだったから」
八歳前後だろうか、幼いイフサーン王子は無邪気に言った。
「マシュアルたちが砂漠に行っちゃってから、会えなくて寂しかったんだよ。今ね、ジーニヤーナ地方のことを教えてもらっていたの」
「そう、マシュアル、ご苦労ね」
「とんでもないことです、ムルジャーナ様」
口調こそ丁寧だが、マシュアルの様子にはどこか打ち解けた調子があるのが意外だ。彼は聖王の側近だと聞いていたが、どうやら自己申告に偽りはなかったらしい。
改めて、マシュアルの姿を観察する。旅装しか目にしたことがなかったが、王子の側に侍るにあたり、身綺麗にしたらしく、精緻な刺繍の入った長衣を纏う姿は、まるで貴顕のようだ。いや、事実貴人だったか。
「僕もいますよ」
アマルが心の中で失礼な感想を抱いている間に、場に不釣り合いな、軽薄そうな声が発せられた。少し視線を横にずらすと、壁面に埋め込まれた棚の側で、書物を片手に立つ亜麻色の巻き毛の男がいた。
「まあ、アリ。久しぶりね」
「ムルジャーナ様、お変わりないようで安心しました」
「どうしたの、他人行儀じゃない。あなたは、我がウダフィー家の秘儀を継承している唯一の占星術師なのよ。私にとっては弟のようなものだわ」
軽やかに笑ってからムルジャーナは、目を白黒させているアマルに向き直った。
「アマル、紹介するわ。彼はアリといって、私の祖父と父の弟子なの」
「ええっ、お弟子さんって、アリさんのことだったんですか!」
「あら、知り合い?」
「マシュアル様を迎えに行ったのは僕ですよ。アマルちゃんともその時に出会いました」
「そうだったの。では話が早いわね」
ムルジャーナは表情を引き締めて、息子の肩を後ろから抱くようにしてアマルの方へと身体を向けた。
「イフサーン、彼女はアマル。あなたに憑いている妖霊を祓ってくれる人よ」
「妖霊を?」
イフサーン王子の新緑色の瞳に一筋、不安が過る。それほど頼りなく見えただろうかと考え、無理もないなと納得した。アマルはただの、若くて貧相な田舎者なのだから。
せめて形だけでもと思い、見様見真似で膝を折り、宮廷風に頭を下げた。
「殿下、アマルと申します。あの、ほんの少しでもお役に立てれば嬉しいです」
イフサーンは、滑らかな眉間に訝しげな皺を寄せてアマルを見上げた。小さな両手は、母の袖をぎゅっと掴んでいる。
人見知りなのか、それともただアマルのことが恐ろしいのか。どちらにしても、妖霊に憑かれているようには見えない。
アマルはイフサーンの全身を観察した。頬は薄紅に色づき、唇も赤みを帯びている。総じて顔色は良い。妖霊に憑かれて暴れると、知らずのうちに手足を傷付ける者もいるが、少なくとも見える場所に目立った外傷はない。目の焦点は狂いなく、背筋も伸びている。つまり、妖霊に干渉された気配がないのだ。
アマルの喉から、無意識のうちに悩ましげな唸り声が漏れた。ムルジャーナがやや緊迫した声音で問う。
「アマル、どうなの。祓えそう?」
「もう少しだけ、調べても良いですか?」
やるべきことは明白だ。王子に憑いている妖霊の正体を見極めなくては。
アマルはイフサーンに微笑みかけてから、事前に許可を得て持ち込んでいた商売道具の柘榴の枝を構えた。
「まずは妖霊とお話をしてみましょう」
「枝を使って?」
「はい。恐れながら殿下の背中を少しだけ叩かせてください」
「背中を!」
顔を強張らせたイフサーンが一歩身を引くのだが、アマルはその分前進して距離を詰めた。
「痛くないですよ。これをすると、柘榴が苦手な妖霊が飛び出してくるんです」
「い、いやだ!」
「怖くありません」
今は妖霊が留守である可能性が高いが、隠れているだけということもあるので、試す価値はある。
しかし、イフサーンはなぜか拒絶する。逃げ出そうとしたが、結局は母ムルジャーナに肩を掴まれて、渋々柘榴の枝を受け入れることになった。
何がそれほど嫌だったのか。幼い子ども、しかも王子の思考などアマルにはわからないので、ひとまず違和感に蓋をする。
「では、失礼します」




