5 宮殿へ
市場を出た一行は、円城都市の中央に位置する宮殿に向かって進む。三重の城壁に囲まれた街。城壁の門を一つ越える度、立ち並ぶ建物は徐々に洗練され、行き交う人々の装いも上質になってくる。
最後の門をくぐり、官僚の邸宅が立ち並ぶ区画に差しかかった時、黙りこくっていたマシュアルが躊躇いがちに口を開いた。
「悪いが、スライマーンには一つ前の区画で待っていてもらった方が良さそうだな」
「え、どうしてですか!」
「この辺の人たちからしたら、彼のような犬は珍しいんじゃないかな」
アリに言われてみればなるほど。一目で地位ある立場とわかるような出で立ちをした人々が、羊ほど大きく、ごわごわした毛並みの野暮ったい大型犬に不審そうな目を向けている。不名誉な理由で衆目を集めるスライマーンは不本意そうだ。
「犬だと? 馬鹿にするな」
通行人に聞きとがめられないよう小声で喋るスライマーンに、マシュアルは溜息交じりに返す。
「本質はどうあれ、見た目は間違いなく犬だろう。というより、妖霊なら自在に姿を変えられるはずだ。犬ではなくせめて人間に化ければ良いんじゃないか?」
「マシュアルさん。スライマーンは犬の姿にしかなれないんですよ」
「妖力に乏しいのか?」
「貴様、我を侮辱するとは!」
「いや、すまない。どちらにせよ、紫色の瞳はやはり目立つ」
「ふんっ……しかしそうだな。実は我も、共に宮殿へ行くつもりはなかった」
「え?」
「アマル、向こうへ」
スライマーンはそれだけ言って、すたすたと城壁側へと歩いて行く。視線が合ったマシュアルに目顔で促され、アマルは黒い尾を追った。二人だけになるとスライマーンは潜めた声量で言う。
「宮殿にはおそらく、防魔の護符が溢れているだろう。お前とは異なり、我は正真正銘の妖霊だ。いたずらに宮廷の退魔師や占星術師を刺激しないよう、我は城下に残るとしよう」
「スライマーン。でも」
「大丈夫だ、アマルは人間なのだから。あるべき場所へ戻るための第一歩とでも思えば良い」
「あるべき場所って」
不意に、先ほど駱駝の背に揺られながら見た夢を思い出す。スライマーンがアマルから距離を置こうとしたのは、今回が初めてではないのだ。
養父の口から発せられたのは、緩やかな離別の言葉なのだろうか。真意がわからないまま、アマルはスライマーンに手を伸ばし、引き留めようとする。スライマーンの紫色の瞳が動き、アマルの人差し指で鈍く光る指輪を捉えた。
「その指輪も隠しておくのが賢明だな」
「どうして?」
「悪を裁く神具だ。退魔師にとっては喉から手が出るほど魅力的な品だろう。それの価値を知る者に見せびらかす必要はない」
「でもスライマーン。いつもは、万が一のために絶対外すなって言ってるじゃない」
「わかるだろう、今回は別だ」
スライマーンはアマルの指に鼻先を寄せて、指輪を外すようにと促す。アマルは躊躇いつつも従った。
スライマーンは指輪を咥えると、頷くような仕草をしてから、マシュアルらの元へと戻って行く。
「あ、待ってスライマーン。鉄の指輪、辛くない?」
「我は偉大な妖霊ゆえ、少し鉄に触れるくらい問題ない。それよりもアマル、滅多なことはないと思うが、用心するのだ。ジーニヤーナ地方に昇ったという災禍の星とやらの正体もまだ判明していないのだから」
結局スライマーンは、先ほど市場で出会った、アリの知り合いである織物屋の元で留守番をすることになった。甘い顔立ちをした色男の願いとあらば、犬を預かることくらいお安いご用というわけだ。もっとも、妖力で抑えてはいるものの、妖霊の気配を微かに発する紫色の瞳の犬は、到着早々店の奥に押し込まれてしまったが。
別れる直前、市場の肉屋から羊肉の筋をもらったスライマーンは太い尻尾を左右に揺らして喜びを露わにしていた。一方で、物心ついてからはスライマーンと別行動をしたことのないアマルは、文字通り呑気に尾を振る養父に内心で舌を出したのだった。
さて、宮殿の壮麗な門をくぐると、整然とした美しさがアマルを圧倒した。石造りの柱廊に囲まれた露天の前庭には、鮮やかな赤色の花が咲き乱れている。中央部の噴水からは惜しげもなく水が飛沫を上げて、空気を清々しく澄ませていた。
まるで夢の世界に迷い込んでしまったかのようだ、などと考えながら辺りを見回していると、格子窓だと思っていた壁面が突然開き、やや声の高い小柄な男が現れた。
「ようこそおいでくださいました。……おや、あなたが退魔師ですか?」
「はい、そうですが」
退魔師ではなく仲裁人だ、と強情に訂正するわけにもいかず不本意ながら頷くと、視線が合う。アマルの瞳の色に気づいた男は音を立てて息を呑み、身体をぶるりと震わせて微かに後ずさった。
やはりアマルの姿は、人間に恐ろしさを抱かせるものらしい。胸の奥底に、まるで水が滲み出るようにじんわりと、黒い感情が広がった。重苦しくなりかけた空気を破ったのは、マシュアルだ。
「彼女はアマル。俺が招いた退魔……いや、妖霊の専門家のようなものだ。何か不満でも?」
「い、いえ。お若い女性でしたので、意外で」
「彼女の妖霊に対する知識は確かだ。俺も助けられた」
「はあ、マシュアル様が。それはたいそうありそうなことで。いいえ失敬。まあ女性ならばむしろ都合が良い。さあ、アマル殿。どうぞこちらへ」
「マシュアルさんたちとは別行動なんですか?」
「ええ、ここから向こうには、特別な事情がない限り男性は入れないのですよ」
「あなたは?」
「私は宦官ですから」
アマルは首を傾ける。彼は半身を向けるようにして振り返った。
「この奥はハレム。聖王のお妃様方がお暮しになる区画です。第二夫人が、退魔師にお会いになりたいと仰せですのでご案内いたします」




