1 アマルとスライマーン
アマルが物心ついた時にはすでに傍には黒い犬がいて、二人きりで暮らしていた。
近くに人間がいなかったこともあり、アマルは黒い犬の姿をした養父と自分が別の種であるとは思っておらず、六歳の頃、彼自身の口から血縁はないと聞かされた時も、ああそうかと思っただけで、特に何の感慨も抱かなかった。
あの日、退魔師がやって来るまでは。
その男は、老いた旅人だった。偶然アマルたちが暮らす廃屋の近くを通りかかった時、押し隠された妖力を感じて様子を見に来たのだという。
というのも、旅人は若かりし頃より、妖霊を祓うことを生業としていたのだ。
当時、年老いてすでに隠居しており、自由気ままな放浪の途中だったらしい。鉄や火薬、柘榴の枝や塩といった退魔の道具は一切持っていなかったものの、完全な無防備で旅をしていたわけではない。彼は、妖霊から身を守る強力な神具を持っていた。彼の小指で鈍く禍々しい光を放つ、悪を封じる指輪だ。
彼は黒い犬姿の妖霊が人間の幼い子どもと共に暮らしているのを見ると、アマルの養父のことを聞き慣れない名で呼んで、「お前のような者は、人の子を育てるに値しない」というような趣旨のことを捲し立てて祓おうとした。
幼いアマルには、朧げにしか状況理解ができない。しかし、養父が危険にさらされていることは察することができた。
アマルは、指輪を突き付けられた養父の前に躍り出て、小さな身体を精一杯盾にして、大切な存在を守ろうとした。だが、破裂するようにして指輪から放たれた強烈な光に目を焼かれたのと同時、眼前に黒い犬の影が割り込むのを見た。
いったい何が起こったのか。事態を把握する間もなく、アマルは意識を失ってしまった。
次に気づいたのは、自室の寝床の上だった。幼子の覚醒を知ると、安堵の表情を浮かべた旅の老人がアマルの顔を覗き込んだ。
「目覚めたか」
「……お父さんは?」
開口一番に言った子どもの姿に、老人はまるで針で指を刺したかのように頬を軽く引きつらせた。束の間の沈黙の後、表情を消して床に膝を突く。視線の高さが合うと、老人の瞳が微かに紫を帯びているのがわかった。妖霊の血が混ざっているのだろうか。
「あれは、お前の父親ではない。お前を人間の世界から攫った災いだ」
言葉は理解できたが、その声はただ脳内を透過して、意味は実を結ばない。
黙りこくるアマルに、老人は静かな声音の奥底に激情の熾を燻ぶらせて続けた。
「あのような者、お前に慕われる資格はない。妖霊と共にあれば、お前はまた危険にさらされる。今回だって、三日も意識を失っていたのだ。《《あれ》》がなければ、おまえはとうに」
「あれ?」
老人は首を振り、とにかく、と言葉を吐き出す。
「あの者はもういない。これから我がお前を人間の街に送り届ける。これからは人の輪の中で人間らしく……」
「いやっ! お父さんと一緒じゃないとどこにも行かない。お父さんはどこ?」
「父ではない」
「お父さんだもん」
アマルは叫びながら掛け布を蹴って跳ね起きた。だが、三日間寝込んでいたというひ弱な身体には適切な力が入らない。視界が暗転して、鼓膜は水に浸された時のように機能を失った。
そのまま倒れた身体を、意外にも力強い細腕が抱き止めた。
ふわり、と老人の体温に包まれる。旅人の黒衣からは、砂の匂いがした。人間に抱きしめられたのは、物心ついてからは初めてのこと。だが、不思議と不快感はない。
心の奥底に埋もれていた赤子の時分の記憶なのだろうか、父母に抱かれた安心感が蘇るようで、アマルは胸の奥を柔らかなもので締め付けられたかのような感覚を抱いた。
全身に広がる切なさに硬直したアマルの髪を、老人の吐息が揺らす。
「人間はか弱いのだ。妖霊よりもずっと。神は両者を同等の存在として創り同じ言語を授けたが、やはり似て非なるもの。決して相容れることはない。たとえ、いかほどに愛し合おうとも」
沈黙の帳が下りる。屋外から砂を含んだ風が吹き込んで、静寂を揺らした。
やがて腕を緩め、旅の老人はアマルを寝床に横たえて腰を上げる。思わず引き留めようと伸ばされたアマルの腕は空気を掴む。
「どこへ行くの」
老人は肩越しに振り返り、紫を帯びた瞳に憐憫を纏わせて答えた。
「あの妖霊を連れてくる。……まったく、愚かな娘だ」
そのまま去るかと思いきや、彼は思い出したかのように腕を伸ばし、アマルの手を取った。
「いつか、妖霊と共にある暮らしに後悔した時には、これを使うのだ」
半ば押し付けるように、硬い物を手渡された。
アマルの小さな手のひらで鈍く光を反射するのは、先ほどまで旅人の小指にはめられていた指輪である。
「それは、悪を裁く神具だ。あの黒い妖霊が悪ならば、封じることができる。無論、他にお前に害なす者どもがいれば、同様に効力が発揮される。全ては、神とお前の意志により」
さらばだ、と彼は質問さえ許さずに去って行く。
その後ろ姿が扉の向こうへと消えるのを見送って、砂っぽい彼の残り香の中、アマルは指輪を光に透かしてみた。
ごつごつとして厳つい印象の指輪。おそらく鉄でできており、重量感がある。台座には、見慣れない模様が刻まれている。円の中に記号と図形。当時はわからなかったが、星の力を込めた護符の図像と酷似している。
ぼんやりとした頭のまま、指輪をかざしたり引っ繰り返したりするアマル。どれほどの時間が経っただろうか。不意に、建付けの悪い扉が軋んだ。老人の予告通り養父が帰ってきたのだ。
「お父さん、よかった。お帰りなさい」
「……父ではない」
先ほど、旅の退魔師にも言われたことだ。穏やかながら断固とした声音からは、どこかあの老人と通じるものを感じた。
「妖霊を父と呼ぶなど、誤解を招く。アマルにとって、それは良くないことだ」
「どうして急にそんなことを言うの?」
今まではそのようなこと、一度たりとも言わなかったではないか。養父が、突然どこか遠くへ離れて行ってしまうような気がして、アマルは上体を起こし、目の前にある黒い背中に抱き付いた。
「でもお父さんはお父さんでしょう」
「アマル。お前はそろそろ人の世界へ帰るべきだ。本当ならば、もっと早くお前を解放するべきだった」
懺悔するような低い声。彼の言葉の真意は理解できなかったが、別れの気配が近づいてきていることはわかった。アマルは身体を離し、寂しげに目を潤ませて養父の紫色の瞳を覗き込んだ。
「嫌だよ。お父さん」
「だからそう呼ぶなと」
「じゃあ、他の呼び方をすれば良い? もうお父さんとは呼ばない。そうしたら、ずっと一緒にいてくれる?」
しばし見つめ合い、根負けしたのは養父だった。
「呼び名、か」
溜息混じりに、彼は言った。
「スライマーン」
アマルは首を傾ける。先日、旅人が呼んでいたのとは別の響きを持った名だ。改めて意識すれば今の今まで彼の名を知らなかったことが、妙なことであるような気がしてきた。
アマルの困惑を察したのか、黒い犬の口が細く開き唸るような声が発せられる。
「スライマーン。我のことはそう呼ぶのだ」
スライマーン。その名を口内で転がしてみる。大好きな養父を表わす音の連なり。先ほどの違和感は吹き飛んで、アマルは嬉しくなって何度も養父の名を繰り返した。
その様子を、スライマーンはしばらくじっと見つめていたが、やがて本物の犬がするように、愛情の証にアマルの頬に額を寄せて擦りつけた。
「もう少し。お前が許す限りもう少しだけ、共にあろうか」
「うん? ずっと許すよ! へへっ、ごわごわだ」
いつもと同じ硬い体毛にくすぐられ、アマルは無邪気に笑った。
これからも一緒にいられる。そのことを知り、砂色の世界に色が戻った心地がした。




