13 ナジュワの最初の記憶
ナジュワの最初の記憶は、母の腕の中だった。温もりと、甘い匂いと、そして啜り泣く声。
「ナジュワ、ごめんね」
母はいつも、我が子に謝罪をしていた。
「ママが人間を愛したから、あなたには辛い思いをさせることになってしまう。せめて、ママに充分な寿命があったなら、ずっと守ってあげられたのに」
きっと、幼い赤子には理解できないと思っていたのだろう。到底、子どもに聞かせるような言葉ではない。
しかし、妖霊や半妖の子の中には、尋常でない早さで成長する者がいる。幸か不幸か、ナジュワはそれだった。
「ママ、なかないで」
生後間もないナジュワが初めて言葉を口にした時、母は驚愕の表情を浮かべ、やがてそれは恐怖に変わり、拒絶となった。
ある新月の晩、母はナジュワを抱いて、星影に照らされた砂漠へ出た。
「ママ、どこへいくの?」
歩みと合わせて揺られながらナジュワが訊ねても、母は答えない。ただ、喉の奥に何かが詰まったかのような涙声で返した。
「ごめんなさいナジュワ。ママはそろそろこの世界からさようならをするの」
「いつかえってくる?」
言葉の意味を半ばほどしか理解していないナジュワの無邪気な声に、母は悲しそうに微笑むだけだった。
やがて母は、闇に沈む砂漠の只中で足を止めた。夜に紛れてしまい、近づくまで気づかなかったのだが、辺りには暗色の天幕がぽつぽつと佇んでいる。
母は、横幕を固定するために砂に穿たれた杭の辺りにナジュワを横たえて、夜気で冷えないようにと、娘の全身を包む毛織物を整えた。
「ママ?」
「ごめんなさい、ナジュワ。さようなら」
母は囁き、ナジュワの胸元辺りに紙を一枚差し込んだ。それから唇を噛み締めて踵を返し、来た道を戻って行く。
「ママ、ママ!」
何が起こっているのか、幼いナジュワには理解できない。ただ、「さようなら」が、永遠の別れを意味する言葉だと朧に理解して、混乱しながらもひたすら母を呼んだ。
母の姿は無情にも、宵闇に溶けて消えた。ナジュワはひたすら、泣き叫び続けた。立ち上がり追いすがることもできたはずなのだが、驚きと絶望で、身体が動かない。もしかすると、妖霊である母はナジュワに、身体の動きを制限する術をかけて去ったのかもしれない。
幼い子どもの悲痛な声が、空に吸い込まれていく。濃紺の画布に散りばめられた宝石のような星空も、ナジュワの目には禍々しく映る。まるで、星々が世界を押し潰そうと迫ってくるかのようだった。
しばらくすると、天幕の中から物音がした。垂れ幕に細く隙間ができ、男が現れる。
「誰かいるのかい」
その声を耳にした途端、言い知れない懐かしさが胸に湧き上がり、思わず涙が止まる。続いて、母のそれよりも大きくぎこちない腕に包まれた瞬間、ナジュワは確信を抱いた。
この人に、会ったことがある。
男は腕の中の幼子を見るなり息を呑み、ナジュワを抱いたまま天幕内へと戻る。燭台の微かな明かりに近寄り、ナジュワの衣服に差し込まれていた紙に気づいたらしい。彼は貪るような勢いで紙面に目を走らせてから、顔を歪め口元を震わせた。
「ナジュワ……僕の娘」
優しく髪を撫でるその指からは、戸惑いと、確かな愛情が感じられた。彼こそが、ナジュワの父ハルシブだったのだ。
ハルシブは、ナジュワを人間の集落で育てようとした。しかし、経緯を聞いた族長のウトバは、認めなかった。
「今夜、その子を捨ててこい」
「できるはずがありません! 我が子、しかも幼子を砂漠に放り出すなど。兄さんには心がないのですか」
「ふざけんな! その娘の瞳を見ろ。禍々しい紫色だ。しかも、癇癪を起こす度、皮膚から妖力が漏れて紫色の火花が散るじゃねえか。妖霊の血が濃い証だ。夜の砂漠は奴らの世界。その子は独りでも生きていける」
「いいえ、絶対にこの子を手放すことはしません。愛したひとの、忘れ形見なのです」
「愛した、だと? 妖霊を?」
「ええ、心から」
ウトバは瞠目して絶句してから、付き合いきれない、とでも言うように肩を竦めて首を振った。
「お前は洗脳されている。頭を冷やせ、愚か者が。その娘の成長速度は異常だ。妖霊の血を引くことは誰の目にも明らか。そんな娘が集落をうろついて、いたずらに部族の皆の心を乱すことは、族長として許容しかねる。娘を捨てるまで、天幕から出ることは許さねえ」
ウトバは、そのうちハルシブも改心するはずだと考えたのだろう。しかし、ハルシブは意志を曲げなかった。
単身用の天幕から一回り広い家に建て替えて、日ごと成長する娘と二人、暑く薄暗い室内に引きこもる。飢え死にされるのは本意ではなく、ウトバは毎日、末弟の天幕まで水と食料を手ずから運んだ。
集落の者らへは、ハルシブには街で出会った女との間に子があって、母親が亡くなったため引き取ったのだが、その子も母と同じ病に罹っており、感染を防ぐために天幕から出られないのだと説明した。
そうして月日は流れ、ハルシブの娘ナジュワは幼児から女児へと育ち、理不尽な身の上に恨みを抱くようになっていた。
いつものように食料を持ち天幕を訪れたウトバは、ナジュワから向けられる憎悪の視線に危機感を覚えた。そうして本能的に察した。
このままでは、あの半妖に呪われる。
ウトバは都市で退魔師を探し出し、ナジュワを祓わせた。詳細な方法は把握していないが、結果的にナジュワは消え、ハルシブと二人で弔いの儀式をして、やっと集落に平穏が訪れた。
その後、我が子を喪い絶望に打ちひしがれるハルシブを見かね、ウトバは近隣の部族に打診して、弟の嫁探しを始めた。やがて、器量が良いと評判の娘と末弟の婚約を取りまとめたウトバは、全てを忘れて人生をやり直すようにと弟を説得した。ハルシブも、拒絶はしなかった。反発する気力もなかったのだろう。
このようにして、一連の不祥事は解決したと思われた。しかし。
婚姻の日程が迫ったあの日、ハルシブは妖霊に憑かれ、婚儀は延期となったのだ。




