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妖霊調査官の受難記 ~砂漠に昇る災禍の星~  作者: 平本りこ
第一話 妖霊調査官と壺の妖霊

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1 偉い人に悪戯をしたら

 ――ああ、またか。


 不運の星に愛された妖霊調査官(ようれいちょうさかん)マシュアルは、口が動く状況だったならば、間違いなくそう漏らしていたことだろう。


 この晩、野宿の地に選んだのは、砂岩に空いた広々とした洞穴だった。広大な砂漠が濃紺の宵闇に沈み込む深夜、仰向けの体勢で眠りについたマシュアルが、強烈な悪寒を覚えて目覚めたのはつい先ほどのこと。


 微睡に落ちる前は、焚火の影が岩天井を朱色に揺らす様をぼんやりと見上げていたのだが、今や視界一面を占領するのは、世にも醜怪な妖霊――ジンの顔。人間に近い容貌ながら、異様に唇が分厚く、紫色の目玉がぎょろりと飛び出している。


 妖霊の個性豊かな顔も、見慣れてしまえば愛嬌がある。そう思えるほどマシュアルは、頻繁に彼らと遭遇していた。砂漠に旅立ってから四日が経つが、毎日何かしらの妖霊と鉢合わせているのだから、いい加減もう見飽きたものだ。


 一方で、眼前の妖霊はマシュアルに興味津々らしい。マシュアルの全身が麻痺したようになり、眼球以外は動かないのを良いことに、頭蓋骨を透視しそうなほどの眼力で、近づいたり離れたりを繰り返す。


 幼少の頃より美男ともてはやされてきたこの顔は、鑑賞するに値するのだろう。異性からの蕩けるような熱視線も、同性からの嫉妬混じりの羨望の眼差しも、共に慣れたものでうんざりだ。


 その上、男とも女とも知れない異形の大きな目に舐め回すかのように観察されれば、気分は最悪である。


 マシュアルが妖霊調査官に任じられたのは、望まずとも彼ら妖霊を引き寄せてしまうという、この特殊な体質のせいでもある。とはいえ、ここで足止めを食らうのは困るのだ。マシュアルには、主君であり幼馴染でもある聖王せいおうから受けた、重大な勅命が……。


「こらー!」


 不意に、締まりのない女の声が、洞穴内にこだました。続いて、ガウッ、という獣の短い咆哮が響く。


 突然の闖入者に驚いたのか、妖霊が飛び出た目玉をさらに剥き出しにして振り返る。そのまま、ふわふわと空中を滑るように移動して、マシュアルの視界から消え去った。


「だめですよ。その人きっと偉い人なんだから、悪戯をしちゃ絶対にだめ!」


 いったいどんな理屈だと心の中で眉をひそめたが、口を挟むことはできない。女はなおも声を張る。


「とにかく、偉い人を怒らせたら後から取り返しのつかないことになるんです。ここは堪えてください」

「あたくしの家に勝手に忍び込んで来たのはこの男の方よ。きっと夜這いだわ!」

「この人は多分、ここが妖霊のお家だって気づけない性質の人なんです」

「ふんっ。おめでたいくらいの鈍感さんなのね。案外色男だから悪戯してやろうかと思ったんだけど」

「だめだめ。これ以上粘るなら、お塩を撒きますよ」

「何よ、もう。仕方がないわね」


 岩天井に映し出される影の動きで状況把握を試みていたマシュアルの視界に、目玉の飛び出た妖霊が、ずい、と現れる。妖霊特有の紫色の瞳が、媚びるような光を帯びた。


「ふふん。次にあたくしの家に来たら、たっぷり楽しみましょうね」


 妖霊は捨て台詞を吐き、煙となって掻き消える。それと同時にマシュアルの全身を拘束していた重苦しい圧迫感も消失し、身体に自由が戻ってきた。


 マシュアルは浅い呼吸を繰り返し、少し落ち着いてから肘を突き上体を起こす。大きく息を吐いて肩の力みを取ってから、妖霊を追い払ってくれた女に向き直った。


「どなたか知らないが、助かった。ありがとう」


 意図せず焚火を直視してしまい目が焼かれ、何度か瞬きを繰り返す。瞼の上下に合わせて明滅する視界の中、次第に二つの影が像を結ぶ。やがて光に眩んだ世界に二十歳前後の若い女と黒い犬の姿が浮かび上がった。


 女は飾り気のない質素な衣服を纏っていた。頭部を覆う砂除けの布は半ばずり落ちて、ほとんど全顔が露わになっているものの、乱れた装いを恥じらう様子はない。朱色の火に照らされた頭髪は赤味を帯びているが、白い光の下で見ればおそらく茶褐色か。目鼻立ちは凡庸で、すらりと背が高い他には取り立てて特徴のない女だが、彼女の瞳の色に気づくと同時に、その印象は一変した。


「……うわわ」


 無遠慮な視線を浴びて、慌てて砂除けの位置を直したので、瞳は布の陰に隠れてしまう。彼女は細い隙間からこちらを窺い言った。


「あ、あの。私、そろそろ失礼しますね。とにかくこの辺りには悪い妖霊とかいないので、何も問題ありませんでしたって聖王陛下に報告してください、お役人さん」

「待て、なぜ俺が役人だと知っているんだ」


 マシュアルは思わず立ち上がり、女に詰め寄った。もちろん、荷物の中には身分を示す証書が入っている。だが、彼女がそれを見る機会はなかったはずだ。あったとすればそれは、この地方へ入る時。領主に妖霊調査の許可をもらうために証書を取り出した時のこと。


「もしかして四日間、俺をつけていたのか?」


 全身がすっと冷たくなる。名家と呼ばれる血筋に生まれ、偉大なる神の声を聴く聖王の幼馴染として育ち、宮廷での地位を確立し始めたばかりのマシュアルだが、その生い立ちから、不穏な輩に目を付けられることは多々あった。


 まさかこの女も、悪意ある者なのではなかろうか。それでなくとも、妙齢の女性と関わるとろくなことがないのだが。


 マシュアルが一歩近づくと、女も同じだけ後退る。とうとう、彼女の背中が岩壁に触れるところまで追いつめた。


「目当ては何だ。金か、命か」

「そ、そんな物騒な! 断じて違います」

「それならばなぜ俺に付きまとった」

「それは」

「おい、貴様。それ以上アマルに近付くな」


 不意に、足元から太い声が立ち上がる。何事か、と思う間もなく黒い塊がマシュアルと女の間に飛び込んだ。マシュアルは強烈な体当たりを浴び、ほとんど受け身を取れずに引っ繰り返る。


 背中を強かに打ち、呼吸が止まる。続いて後頭部に強烈な衝撃が走り、視界がぐにゃりと歪んだ。


「わあ、大丈夫ですか! スライマーン、だめよ。お役人さんを怪我させたら……」


 慌ただしい衣擦れが妙に反響して鼓膜を揺らす。渦巻くように回る視界の中、マシュアルを案じる女の姿が近づいた。再びずり落ちかけている薄布の間からはっきりと、人のものとは思えぬ紫色の瞳が見えた。

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