9 調査をしましょう①
「妖霊が潜むのは、水場や洞窟、竈辺りが定石です。でも、遊牧民の集落に竈はないですし、この辺りは砂ばかりの砂漠なので、洞窟もなさそうなんですよね」
「それで井戸なのか」
半ば風化した石積みに囲まれた井戸に、革で作られた桶が落とされている。それを引き上げるための太い縄を手繰り寄せながら、アマルは頷いた。
「はい。妖霊がいる気配はあんまりないんですが、痕跡だけでも見つからないかと思いまして」
「気配、か。……っておい、何をやっている」
思わず声が高くなる。松明を掲げたアマルは目を丸くして瞬きをしてから、手に持っていた縄を自身の腰に巻き付けた。
「何って、見に行こうかと」
「まさか、その縄を頼みにして下りるのか?」
「それが一番確実です」
「いや、危険だろう!」
「わあ、心配してくれているんですか? 嬉しいなあ。でも大丈夫ですよ。さっき調べたところ水深がありそうですから、落ちても大事件にはなりません」
「だが」
「じゃあ行ってきます」
制止も聞かず、アマルは軽快な身のこなしで井戸に下りて行った。
石積から身を乗り出して覗き込むと、すでにアマルの姿は闇に溶け、ぼんやりとした松明の赤い光だけが浮かんでいる。かなり深そうだ。これは、しばらく戻って来ないだろう。
気を揉んでいても仕方がない。マシュアルは嘆息してから近くの灌木に布を張り、出来上がった日陰に腰を下ろした。
後を付いて来たスライマーンは落ち着きを払っている。マシュアルは意外に思い訊ねた。
「君は心配ではないのか」
「砂漠暮らしならばあの程度、大したことはない。都の役人は軟弱だな。豪華絢爛かつ快適な屋敷で、奴隷にかしずかれながら何不自由なく育ったのだろう」
型にはめた偏見を持たれ、胸の奥に不快が沸き立った。しかし、暮らしにおいて不自由しなかったのは確かなのだ。マシュアルは否定する代わりに、問いを発した。
「俺のことが気に入らないのなら、どうしてアマルと行動を共にすることを許したんだ。居候までしているんだぞ」
「不本意ながら居候を許したのは、おまえがアマルを恐れない人間だからだ。背に腹は代えられない。アマルはそろそろ、人間の世界に戻るべきだ」
スライマーンの紫色の瞳が、ぼんやりと井戸を眺めている。砂の下にいるアマルを思っているのだろう。
喋る黒い犬の姿をしたスライマーン。初対面時の驚きが薄れてしまえばつい忘れそうになるのだが、彼は妖霊だ。しかも、アマルの父だという。
良く考えれば、いったい何がどうしてそのようなことに。これまでは、個人的な話題ゆえ深入りすることが躊躇われていたのだが、アマルは半妖なのだろうかという疑問は常に抱いていた。
これも良い機会だと考え、それとなく訊いてみれば、案外素直に返答がある。
「拾ったのだ。ある街で」
「やはり、彼女とスライマーンに血縁はないのか」
妖霊は自在に姿を変える。そのため、妖霊が異種族との間に子を成した例もあるという。とはいえ、眼前の犬と人間に血縁があるとなると、それはそれで混乱するので、二人の関係性を再確認して何やら安堵したマシュアルである。
スライマーンは、過去に思いを馳せているのか前足で砂を掻きながら続けた。
「血の繋がりはないし、知人の子でもない。だが、アマルを本当の娘のように思っている」
「どうして拾ったんだ。ずっと犬の姿をしているということは、君の本質は犬……なんだろう?」
「貴様、我を犬呼ばわりするなど千年早いわ」
牙を剥き出しにして唸られたが、その仕草は見るからに犬だろう。
口を衝いて出かけた言葉を呑み込んで、マシュアルは肩を竦めた。
「それはすまない。で、どうしてアマルを育てようと?」
スライマーンは牙を半分引っ込めてマシュアルを睨み、やがて視線を逸らせて、橙色に滲む砂の地平線へと目をやった。
「最初は、慈しんで育てるつもりなどなかったのだがな」
黒い耳が切なげに倒される。渇いた風に毛が揺られる様子を眺め、マシュアルは言葉を失った。寂しげな黒い影から漂う哀愁は、我が子の独り立ちを前にして胸に去来する様々な感情を噛み締める父親のそれだったからだ。
「スライマーンは妖霊だろう。人間よりも寿命が長いのだから、無理してアマルを人間の世界に戻さなくとも、君が生涯一緒にいてやれば良いじゃないか」
「いいや、あの子を人間としての幸せから遠ざけたまま、孤独の中で老いさせるなど、あってはならない。……だからいつか、我は」
スライマーンは急に口ごもる。
灼熱を纏う風が二人の間を通り抜け、沈黙を撫でた。その温度で我に返ったのだろう、スライマーンはおもむろに視線を上げ、マシュアルを見る。躊躇いを帯びた紫色の瞳が揺れている。
「スライマーン、君は……」




