7 まさか、何も感じないってのか
いったいあれは何だったのか。そもそもアマルは、毎度あのような危険に身をさらしながら仲裁とやらを行っているのだろうか。
問い詰めたいことは多々あった。しかし当のアマルは寝込んでいるし、スライマーンは彼女に寄り添い離れない。
人目がある場所で犬に執拗に話しかけて気狂い疑惑を生み出すわけにはいかないので、マシュアルは悶々とした気分を抱えたまま、小高い場所に鎮座する砂岩の上に腰かけて、集落を見下ろしぼんやりとしていた。
赤い斜陽に照らされた天幕が濃い影を落としている。この距離では小枝のように見える人々が、何事もなかったかのように行き交って、日々の営みを送っている。羊か山羊か知らないが、家畜が呑気な鳴き声を響かせていた。
この地方には、災禍の星が昇っているのだという。それが何なのか検討もつかないものの、少なくとも眼下の光景は反吐が出そうになるほど長閑だった。
「マシュアル殿」
ぼんやりと物思いに耽っていた意識は、聞き覚えのある男の声で引き戻される。肩越しに視線をやれば、すっかり回復したらしい族長ウトバの姿があった。
「隣、座って良いか」
マシュアルが頷くと、ウトバは片膝を立てて砂岩に腰を下ろす。しばらくしてから、口を開いた。
「弟は正気に戻った。アマル殿には頭が上がらないな」
「そうは見えないが」
「集落の皆の態度のことか。どうか許してやってくれよ」
「住民たちは、アマルの能力を疑っているのか?」
「なぜそう思う?」
マシュアルは胸の奥に引っかかっていた違和感を口にした。
「信頼されていないように見える。それと住民の噂話からは、『小娘』だとか『今回も』だとか聞こえてくる。もしかするとアマルの前に、ハルシブ殿を救えなかった熟練の退魔師がいたんじゃないか?」
「ハルシブのことを頼んだのは、アマル殿だけだ。それに、彼女を遠巻きにする理由は別にある。あんたも彼女の側にいるんなら、わかるだろ?」
マシュアルは、ウトバが言わんとすることに思い至らず、眉根を寄せる。
ウトバはマシュアルの瞳を覗き込み、ややしてから目を丸くした。
「まさか、何も感じないってのか」
「何も?」
ウトバの鳶色の瞳に躊躇が浮かぶ。マシュアルが目顔で続きを促すと、「嘘だろ」とぼやいてから言った。
「マシュアル殿は、アマル殿が恐ろしくないのか」
――私のことが怖くないんですか?
妙なことを尋ねられたと思ったと同時に、脳裏にアマルの声が蘇る。そういえば彼女自身も、己は恐れられて当然だというような振る舞いをしていた。
確かに、紫を帯びたアマルの瞳を目にすれば誰しも、まさか妖霊ではなかろうかと身構えてしまうものだが、言葉を交わせばどこにでもいる若い娘なのだ。少し、いや、かなり変わった言動が見られるが、人間との交流が少ない生い立ちなのだと聞けば、納得もできる。
「彼女の瞳の色は確かに珍しいが」
「いやいや、それだけじゃねえだろ」
間髪を入れずウトバは言い、首を左右に振りながら息を吐いた。
「彼女からは、何というか……妖霊そのもののようにひんやりとした、腹の奥底にぞくぞくとくるような、恐ろしい空気を感じる。わかるだろ、妖霊が近づいたときのあの感覚だ」
マシュアルは言葉を失い、ウトバの顔に浮かんだ純粋な畏怖の念を見つめた。
彼の言葉が真実だとすれば、アマルがマシュアルに向ける友愛の理由や、自ら呼び付けておいて近くに寄ろうとしない住人らの振る舞いにも説明がつく。
つまり、生来妖霊に鈍感なマシュアルだからこそ、アマルと共に過ごしても何ら不快感を抱かないのだ。そのことが、周囲の目には酔狂な人間に映るのだろうし、アマルにとっては慕わしくも思えるのだろう。
あのように若い娘が、ただそこに立っているだけで同族から恐れられる日々を送っていたのだとすれば哀れだ。マシュアルは胸の奥底を締め上げられたかのような心地になり、人知れず拳を握った。
「あいにく、俺は妖霊の気配を察することができない体質らしい」
このまま会話を続けていても、互いに不愉快になるだけだろう。マシュアルは腰を上げ、ウトバに軽く頭を下げてから砂丘を下り集落へと戻って行った。




