6 出ちゃだめだって言ったじゃないですか
妖霊に憑かれたハルシブの天幕の正面。砂地に塩水で円陣が描かれている。アマルの作だ。
塩水に浸された細い指先が、突っ立ったマシュアルの足元を囲うように綺麗な二重の円を引いたのだ。弧と弧の間には見たことのない記号がびっしりと記されて、中央に立つ身としてはまるで、怪しげな魔術に捕らわれた囚人のようである。
アマルはこれを、さほど時間をかけずに迷いのない筆致で描いた。最後に、赤味がかった砂上に生まれた茶色い円陣をぐるりと回り綻びがないことを確認すると、満足げに頷いた。
「この円陣が、マシュアルさんを妖力から守ってくれますからね」
「俺は妖力とやらにあてられることはないと思うが」
「鈍感は、それはそれで危険なのだ。何も感じない分、危険を回避することができぬからな。黙ってそこに立っていろ」
近くにウトバがいなくなったため正体を隠す必要がなくなったスライマーンは、途端に饒舌になる。戻ってきた毒舌に、マシュアルは反論することができず、大人しく円陣の中からアマルとハルシブの様子を見守ることにした。
天幕の出入り口にあたる垂れ幕は完全に巻き上げられており、室内に光が差し込んでいる。白い陽光に照らされたハルシブの顔は乾燥し、眉間には苦悶が刻まれて痛々しい。
「では、始めます」
頻回に上下するハルシブの胸の横に膝を突いたアマルは、自身のあばら屋から遥々持参した柘榴の枝を掲げ、瞼を閉じて何かを唱え始めた。
何かを感じたのか、すぐ近くで見守るスライマーンの黒い毛並みが、逆立つように膨らんだ。
アマルが、枝でハルシブの胸から腹を撫でるようにして打つ。しばらく続けると男の喉から引き絞るような呻きが漏れた。それは次第に悲鳴に転じ、魔に関する事柄に疎いマシュアルですら、ただならぬ気配を感じて肌が粟立った。
アマルの側頭から汗が流れ、音を立てて絨毯に滴った。ハルシブの声はいっそう高くなり、アマルの顔が苦しげに歪んだ。
「おい、大丈夫か……」
「そこから動くな」
スライマーンに鋭く命じられ、マシュアルは踏み出しかけた片足を引く。代わりにスライマーンがアマルの隣に寄り添った。その時だ。
「……ない」
アマルの喉から、異様に低い声が漏れた。
「許さない。あたしの大切な……!」
まるで腹部を強く殴打されたかのように、アマルの腰が丸まり後ろに傾ぐ。しかし倒れることはなく、彼女は柘榴の枝を放り投げ、かっと目を見開いた。瞳が、深い紫色に染まっている。
「寂しい悲しい辛い、憎い憎い憎い憎い憎い」
「アマル!」
スライマーンの制止など、耳に入らない。眼前で繰り広げられる尋常ない事態に、マシュアルの爪先が、円陣の端を踏む。それから躊躇なく砂を蹴り、天幕へと飛び込んだ。
常人ならばおそらく、足が竦んで動けないことだろう。しかし妖霊の気配に疎いマシュアルだ。妖霊への畏怖よりも、知人が狂っていくことへの恐怖が勝った。
ハルシブの身体を挟みアマルと向き合う。彼女の肩を掴み、強く揺さぶった。触れた指先辺りから、薄らとした紫色の火花が散っている。
「おい、しっかりしろ。憑かれるな」
「どけ!」
いつかのように、二人の間に黒い影が飛び込んだ。しかし今回は初対面時とは違い、マシュアルを害そうとしたのではない。
スライマーンの体当たりを受け、マシュアルはアマルを庇うように抱いたまま絨毯に倒れ込む。首をひねると、黒い天井に灰色の靄のようなものが吸い込まれていくのが見えた。
あれが、ハルシブに取り憑いていた妖霊なのだろうか。
灰色の残滓が霧散して、しんと静まり返る。先ほど見たものを脳内で咀嚼できるまでたっぷり数呼吸分、呆然と虚空を眺める。
やがて、沈黙を破りスライマーンが忌々しげに吐き捨てた。
「いつまでそうしている。アマルから離れろ」
「あ、ああ」
混乱したまま体勢を立て直し、アマルを助け起こした。茶褐色の髪が乱れ、汗で頬に張り付いている。強く目を閉じていたのだろう、滲んだ涙で濡れた睫毛が小さく震え、呻き声と同時に瞼が持ち上がる。覗いた瞳は普段通りの彼女の色だ。
焦点が定まらないのか、アマルは何度か瞬きを繰り返す。やがて状況を理解したのだろう。マシュアルの顔を認めると困ったように微笑んだ。
「円陣から出ちゃだめだって言ったじゃないですか。でもあのひと、びっくりして飛んで行きましたね。おかげさまで、助かり、ました……」
「おい!」
アマルの全身が力を失い弛緩する。軽く揺らせば首が揺れ、死人のような様子に背筋に冷たい汗が流れるが、呼吸は確かなようだ。
「生きている」
「当然だ。貴様、アマルを連れてこの天幕から離れろ。その男の魂は妖霊から解放されたゆえ、他の者に任せておけば問題ない」
横柄な命令に軽く舌打ちをしたが、マシュアルは素直に従うことにする。言われずとも、このような場所に長居はしたくない。
強烈な陽光の下に出る。騒ぎを聞きつけた人々が、少し離れた場所で何事かを囁き合っている。
「やっぱりね」「あんな小娘には対抗できない」「きっと今回も」
飛び交う不安気な言葉の断片を拾い集めながら、周囲で交わされる言葉たちが示すものを捉えようとして、全身を神経にして辺りを窺った。
仲裁人が妖霊と相打ちになったらしい、と噂になっている。失望を帯びた視線が、遠巻きに注がれている。当事者であるはずの人々が、無責任に悪態をつき、傍観者の目をして突っ立っている。
マシュアルは不意に、言いようのない憤りを覚えた。
負の感情が表情に出ていたのだろうか、マシュアルと目が合うと彼らはいっそう萎縮して、そそくさと散って行く。
このような礼儀知らずで薄情な者らのために、アマルが危険な目に遭ったのかと思えばさらに気が立った。
横抱きにしたアマルの右腕が、歩みに合わせてゆらゆらと揺れている。その人差し指で、鉄の指輪が鈍く光っていた。




