5 絶対に出たらだめですよ
再び例の天幕へと入ろうとすると、ウトバが突然立ち止まり、垂れ幕から一歩も内側へ足が進まないと言い出した。
妖霊が恐ろしくなったのだろうか。あまりにわざとらしい物言いに疑いの目を向けたマシュアルだが、族長の顔は蒼白で、焦点の定まらない目をして荒い息をついている。さすがに心配になり肩を支えてやった。
「どうした、大丈夫か」
しかし反応は薄い。ウトバの体調の急激な悪化に狼狽えていると、動じず構えるアマルと目が合った。
「きっと妖力にあてられたんです。離れた場所で休んでもらいましょう。マシュアルさんは大丈夫ですか? 無理せず、ウトバさんと一緒に向こうで待っていてください」
大丈夫、とはいったい何が。
炎天下、灼熱の熱気に肌が焼かれるようだし、十分な水を飲まなければすぐに倒れてしまうだろう。だが、栄養たっぷりの駱駝の乳で腹を満たしたばかりなのだ。体調を崩す理由は何もない。
もちろん、アマルの言う妖力とやらなど、生まれてこの方感じたこともない。不本意極まりないが、これがアマルやスライマーンの言う「鈍感」ということなのだろうか。
とはいえ、妖霊の気配には敏感なはずのアマルの方も、顔色一つ変わらない。この差はいったい何事か。
「君の方こそ大丈夫なのか」
「へ、私?」
「普段から妖霊と共に過ごしているのに、妖力のせいで体調を崩したことはないのか?」
アマルの眉が僅かに上がる。虚を衝かれたような間が空いて、何度か瞬きをした後、アマルはふにゃりと笑った。
「あはは、私は多分特殊体質なんですよ。そうでなければ、スライマーンと一緒になんて暮らせませんから。それはともかくとして、今はウトバさんを休ませてあげましょう。マシュアルさんもあちらで」
「いいや、俺は近くで見させてもらおう」
ウトバを担いで集落の中心部へと足を進めながら、なぜか、言い訳のように言葉が零れ落ちる。
「ほら、ハルシブ殿に憑いているのが、占星術師の言う災禍の星とやらかもしれないだろう」
「多分違いますよ。だって普通の妖霊ですから」
「だが、普通の妖霊にしては妙なほど強く魂を捕らえているんだろう? 災禍の星の正体と関係があるかもしれない」
そうだ。マシュアルがアマルと行動を共にしているのは、妖霊調査官としてこの地に潜む災禍の星を見定めるため。
幸いというべきか、マシュアルは妖霊の気配を察することが壊滅的に苦手だ。妖霊と対峙する様子を見物しても、妙な力にあてられてしまう危険は少ないだろう。
そのようなことを早口に捲し立てるマシュアルを不思議そうに眺めながら、アマルはマシュアルが担いでいるのとは逆方向のウトバの腕を取り己の肩に乗せた。背中にのしかかる体重が、ほんの少し軽くなった。
族長が青白い顔をしているというのに頑なに近寄ろうとしない集落の住人を横目に、ウトバを安全な天幕内に横たえる。
妙な集落だ。皆が何かに怯えているかのような。いや、実際恐怖を抱いて当然か。族長の弟が妖霊に憑かれているのだから。しかし、いわば頼みの綱である仲裁人からも距離を置く様子にはやはり、違和感を覚えるのだが……。
「ふう、これでよし」
わざとらしいほど明るい声が、マシュアルを思考の底から呼び覚ます。見れば、アマルが額の汗を拭いながら宣言するところだった。
「じゃあマシュアルさん、気を取り直してハルシブさんに憑いているひとにお話を聞きに行きましょう。えへへ、お友達の前で仲裁するのは少し照れちゃいます」
どうやらマシュアルの見物は許可してもらえたらしいのだが、アマルの明るい声とは対照的に、二人の足元からじっとりと低い声が上がった。
「アマルの足手まといになるでないぞ、鈍感」
「なるものか」
先ほどまで犬に徹していた妖霊スライマーンが発した皮肉な言葉を、すかさず打ち返す。だが直後、マシュアルは痛感することになる。
ただそこに立っているだけでも足手まといだったかもしれない。
「良いですか、絶対にその円の中から出たらだめですよ」




