4 恨まれちゃったんじゃないですか?
「前提として、弟さんに憑いているのは、普通の妖霊です」
もこもこと白く泡立つ駱駝の乳が入った椀を両手で包んで言ったアマルに、妖霊に無知なマシュアルは首を傾けて問う。
「普通ではない妖霊なんてものがいるのか」
「あ、そうですよね。まずはそこから説明しますね。一口に妖霊といっても、様々な種類がいるんです」
アマルは嬉々として椀を傾けてから、口の端に少し泡を乗せたまま説明を始めた。
「人間にとって一番身近で、仲良くなりやすいのはジン。いわゆる普通の妖霊です。人間に化けることもありますが、紫の目だけは変えられないから一目瞭然です。次に数が多いのは、人間を食べちゃう食人鬼でしょうか。この二種類は良く耳にしますよね」
マシュアルは頷く。実際、砂漠を放浪する母子を善かれと思い助けたところ、実は食人鬼の罠で、危うく食われかけたという過去もある。
「でも、もっと付き合い方が難しいひともいるんですよ。それが、イフリートやマーリド。高位の妖霊です。彼らはジンとは違い虹彩の色も変えられます。イフリートは力持ちで女の人に目がありません。それと、最高位の妖霊マーリドは特に厄介です。魂を肉体とは別のところに預けることができて、預けられた者はマーリドに従属するようになるんです。魂の在処を探し出すのが大変なので、マーリドを祓おうとすれば、高名な退魔師でも苦戦させられるんですって」
「マーリドはともかくとして、イフリートの女好きは恐ろしいのか?」
「夜の砂漠で女性が独り歩きでもしようものなら、間違いなく攫われちゃいますよ!」
「なるほど」
興味深く耳を傾けるマシュアルに対して、ウトバは焦燥を募らせているのか、早くも要約を促す。
「で、今回ハルシブに憑いているのはよくいる普通の妖霊、つまりジンだと」
「はい。だからこそ妙なんです」
「妙?」
「弟さんの魂は、かなり強く捕らわれています。ただのジンにしては力が強すぎるんです。よくある悪戯妖霊の気まぐれではありません。相当強烈な思いに突き動かされているみたいです。失礼ですが、何か恨まれることでも? ほら、ご両親も妖霊に、とおっしゃっていたので」
ウトバは微かに頬を強張らせたが、激しい動揺を見せることはなく黙りこくる。アマルは穏やかな声音で辛抱強く問いかけた。
「些細なことでも良いんです。妖霊を説得して穏便に身体から出て行ってもらうためには、何があったのか知らないとだめなんです」
「両親は、はぐれた羊を探しに砂漠に出て食われただけだ。怨恨は関係ねえ。ハルシブだって、憎まれるようなことなどしていない」
「じゃあ、弟さんの様子が変わり始めたときのことを教えてください」
ウトバは意図を探るようにアマルの青紫色の瞳を見つめる。やがて、深呼吸をしてから語り始めた。
「弟が狂ったのは、婚儀の数日前だった」
「弟さんの婚儀、ですか?」
「そう。交流のある別の部族から新婦がこちらへ向かっていたんだが、そろそろやって来るだろうという日になって急に、ハルシブが発狂し始めた」
「失礼だが、弟君は結婚を嫌がっていたとか」
思わずマシュアルが言うと、ウトバは否定の意味に首を振る。
「そのような素振りはなかった。相手は弟と面識こそなかったが、この辺りでは有名な気立ての良い美人で、誰もが羨む相手だ」
「じゃあ妖霊の横恋慕でしょうか。うーん、でもそれだけではあんな。ウトバさん、弟さんに憑いている妖霊について、心当たりはありませんか?」
「あるわけねえだろ」
「そうですか……」
アマルは椀に目を落とす。左手の指先で右人差し指の無骨な指輪を撫でながら、思索を巡らせているようだ。
沈黙が場を支配する。他の住人らは相変わらずマシュアルたちに近づこうとしないので、集落の喧騒もやや遠い。
やがて、居心地の悪い空気を揺らしたのは、短く吠えた犬の声。スライマーンだ。
声に思考を絶たれたのか、アマルは膝のすぐ側に伏せた黒い犬に目を向けてから、椀を持ち上げて一気に傾けた。細い喉を鳴らして最後の一滴を嚥下し終えると、彼女は笑みを浮かべて言った。
「お話は概ねわかりました。ではさっそく、あのひとに詳しく訊いてみましょう」




