三日月の夜に・港町で・雪の結晶を・得意げに披露しました。
ずいぶんと珍しい形だと思ったので掴んだ。それは海の中でうねうねと動き、逃げるような仕草をしたのだがそれでも手袋越しに掴むことが出来た。それを咎める者は誰もいない。もう成人しているので、誰も叱ってくる者もいない。インストラクターは近くにいるものの、ナイトダイビングのツアーはあまり人数もいないため常に監視されると思ったのだが、夜の海の闇に紛れてしまってかこちらの動向に気付いてはいないようだ。まだ必死にそれを掴む。うねうねと気味の悪い動きをしながら逃げようと必死である。その腕は蛇の尾のようにぐねぐねと蛇行しているのに、中央の体は固くてなんだかよくわからない生き物である。インストラクターが上に、と指を上げたので結局その生き物を掴んだまま上へと上がっていくのだった。口から吐き出す泡が透明で美しい。だがその泡よりも先に水面にあがってしまうから、じっくりと眺められないのだ。ライトに照らされて光を飲み込む美しい漆黒の海は、水面になると墨色になってなんだか汚らしく見える。なんだかめがねを掛けたら世の中の色鮮やかさよりも、あらが目に付いてしまった体験談を思い出した。海は中こそ美が詰まっている。塩っ辛い水を皮膚の上のだウェットスーツに感じながら、私は他の講習者とともに、インストラクターの指示で船の上に上がることになった。手にはまだ珍しい生き物を掴んでいる。
「きゃあ」
最後にあがった私が船の上にそれを放り投げると、女の悲鳴がした。同じダイビングを楽しんでいた見ず知らずのカップルの一人であろう。まだ若い男女らしい。そのうちの女が、声を上げたのだ。なんだか小学生の時に戻ったかのような新鮮な気分だ。あの頃は性差を感じなくても人間が人間を驚かす純粋さがあった。女だから驚かしたいんじゃない、男だから驚かしたいんじゃない気持ちだ。男のほうは冷静なようだった。
「クモヒトデだよ」
彼の冷静な物言いは、何故か私の興を削いだ。それに既に名前が付いているものだったのかと知らずに掴んだのだから、そのままインストラクターに教えて貰いたかった気分だ。だが男はダイビング慣れしているのか、海の生き物に詳しいのだろう。
「毒性もないよ。ちょっと気持ち悪いけどね」
「やだぁ」
女が男にすがりつく。私はそれを羨ましいと純粋に思った。円満に退職をし、日々の金を稼ぐ手段よりも私はFIREムーブメントを選んだので暇と時間は持て余している。だから添い遂げる女性はいない。結婚したのなら働き続けなければならないだろうと、昭和の父母の考えが頭に染み着いて居るものだから、意図的な独身を貫いている。このまま自由に日々を過ごせたら楽しいだろうという考え一つで、死にものぐるいでここまで来た。だから羨ましいというのは純粋な思いで、妬みではない。私にはない選択が出来る若者は、朝日よりもまぶしいのだ。そしてダイビングを嗜んでいる彼は、多少の財力や余裕があるのかもしれないと思うと、違う生き方をしている若者をうらやむのは当然だろう。
「すみません。驚かすつもりはなかったんですが、逃げそうで」
私は言い訳じみた言葉を並べた。
「ああ、いえ、大丈夫ですよ。でもどうしてクモヒトデなんですか?」
青年はあまり驚きも珍しくもないのか、淡々とした口調だった。
「や、珍しいなと思って」
「アクアリウム用に買えたりしますよ」
「へえ、そうなんですか」
若者は容赦がない。だが青年は、嫌みのつもりで言っていないのだろう終始淡々とした口調である。
「でもこの大きさはなかなか見ませんね」
お世辞だったのかもしれないが、若者に社交性を垣間見る。彼の実直さは、世擦れしていない証だろう。だがこちらを立てないのは、私の不機嫌を誘発するかもしれないと考えたのだ。女が言う。
「それ、外に出してもらえますか?」
「ああ、そうですね」
やはり若者は実直だ。彼女も社会の荒波で擦れてしまえば、口からは思ってもいない社交辞令が飛び出すのだろう。それが人間という社会性の生き物の特徴であるが、この二人はなんだかこのままで生きて欲しいと思ってしまう。もう40を越える私には、金を積んでも取り戻せないまっすぐさがここにはあった。