春一番が吹いた日
十一、待合室(花実)
私は予診票を書き終え受付へ持っていくと「ありがとうございます。予約の方が優先になりますのでちょっとお待ちくださいね」と受付の女性は柔らかな表情で予診票を受け付けてくれた。なんだかいい雰囲気のクリニックだなと思った。私が想像していたメンタルクリニックとはちょっと違う空気が流れていた。
待合室には五人くらい待っている患者さんがいた。後方の席は埋まっていたので私は前方の一番右端の席に腰を下ろした。みんなやっぱり元気そうではなかった。こんな身近にいろいろ悩んでいる人たちがいるんだなと思ったら、「自分だけじゃないんだ」そう思い正直ホッとした。人が少しずつ診察室へと呼ばれていった。
「ホンダさん、ホンダハルタさん」そう呼ばれた人の後ろ姿を見た時、私はハッとした。多分、いや確実にはじめてパニックになった時に助けてくれた人だ。恩人さんも体調が悪いんだ・・・。私はなんだかショックだった。「元気になって欲しい」心からそう願った。
「ホンダハルタさんと言うんだ。ハルタさんのハルは季節の春かな」そんな気がした。春がすごく似合う気がした。
診察室から戻ってきた私の恩人さんはとても優しそうな顔立ちをしていたが「誰も話しかけないで」と言わんばかりのオーラを出しているように感じた。
そうだよな、私だってできれば誰とも話なんてしたくない。あの時、恩人さんもきっとつらかったのに私のことを助けてくれたんだろう。そう思うと申し訳ない気持ちと一緒に前以上にありがたみを感じたし、きっと優しすぎるくらい優しい人なんだろうと思った。お礼を言いたいのは山々だったがぐっと堪えた。私は恩人さんにまた会えただけでとても嬉しかった。心の中で「ありがとう」そう何度も何度も繰り返した。
十二、待合室(春太)
僕の方が先に診察室へ呼ばれた。僕はわざと顔を伏せて診察室へと向かった。今日は研修医の薫さんはいなかった。僕はちょっと安堵した。比べられるような存在ではないのはわかっていたが、あの眩いほどキラキラとした薫さんと自分を比べると、僕はピラミッドの底辺にいることを実感させられるからだ。段々とこの気持ちが嫉妬に変わりそうで怖かった。男の嫉妬はとても怖いものだ。僕は少し背が高い。それだけで嫉妬された経験があるからなんとなくわかる。できるだけそんな感情を持たずにいたい。別にいい人間になりたいわけではない。ただそんな自分が嫌なだけ。そして僕は極端に人の心を傷つけることが怖い。だから今は特に誰とも話したくないし関わりたくもない。人と関わらなければ人を傷つける可能性も低くなるし。
医師は「その後どうですか」と聞いてきた。僕は素直に「薬の効果が感じられなかった」「生きる意味ばかり考えてしまう」ということを伝えた。ただ自死願望があることだけは隠しておいた。そんなことを人に言えるはずもなかったし、言葉にしてはいけない気がした。
医師は「眠れていますか」「食事は摂れていますか」と続けてきたのだが、僕は眠れるし食欲もあったので、僕の症状はたいしたことがないように思えた。僕は「眠れるし、食事も食べています」そう答えると医師は「よかったですね」そう言って、「とにかく無理をしないこと」そう言って前と同じ薬を処方しますという旨を僕に伝えて診察は終わった。
待合室に戻っても僕の気持ちは晴れてはいなかった。また同じ薬を飲んでいればよくなるのだろうか。そして僕は病気なんかではないのではないか。その気持ちが頭の中をグルグルと回っていた。そんな時例の女性が呼ばれ診察室へと入っていった。「ナカヤマハナミ」そう呼ばれていた。「この人も春生まれなのだろうか」そんなことを考えた。そういえばもうすぐ桜も咲きだすんだろうな・・・。
僕はその人が診察室に入っている間に会計に呼ばれ一足先に逃げるようにクリニックを出た。
十三、春が好き
クリニックで診察を受けたが、カウンセリングを勧められた。はじめに家族構成やいままでの経緯を聞かれた。私は嘘ばかりついたかもしれない。いつもそうだ。家族のことなど一切話したくない。いままで本当のことなど誰にも話していない。隠していると言った方がいいかもしれない。だからカウンセリングも受けたくなかった。でもちょっとだけ希望のようなものを感じたので一回だけでもと思い一応予約を取った。私が診察を終えた頃にはもう恩人さんの姿はなかった。「私のことなど覚えていないだろう」そう思ったりもしながら会計を終えクリニックを後にした。
帰り道、いつもはバスを使っていたがまた行き同様歩いて帰路に着いた。やけに風が強くて冗談ではなく飛ばされそうになった。息がしにくくて少しつらかった。でもバスに乗る勇気もなくなっていた。
家に着きテレビをつけニュースをみたらどうやら例年より一週間も早く春一番が吹いたらしい。「春一番か・・・」春は風がとても強いが私の中の悪い物まで吹き飛ばしてくれる気がする。なんとなく私をちょっとだけ優しい気持ちにさせてくれる気もする。
今日は「希望」を少し感じられる一日だった。そして春一番の日に恩人さんに出会えたのがとても嬉しかった。恩人さんの体調良くなるといいな。きっと笑顔が似合うだろうな。そんなことを勝手に思っていた。
十四、春が嫌い
僕は電車に揺られながら考えごとばかりをしていた。もちろん自分の体調のこと、そしてナカヤマハナミさんのこと。どうして人は心まで病んでしまうのだろう。ハナミさんには何故かはわからないが元気でいて欲しかった。なんとなくいままで会った人とは違うような気がしていた。
最寄り駅に着きアパートまで七分歩いたがとにかく風が強くてただでさえ纏まりにくくてどうにか整えた髪の毛も乱れて、目にも砂が入ってしまいコンタクトがズレてしまって、思わず「春なんて嫌いだ!」そう大声で叫びたくなった。
家に着いて手を洗って速攻でコンタクトを外した。メガネをかけてテレビをつけ何気なくニュースを流していたら「今日は春一番が吹きました。例年より一週間早い観測結果です」というセリフが聞こえた。
僕が生まれた日は春一番が吹いた日だったらしい。僕は昔、自分が生まれた春が好きだった。けれどいまは大嫌いになってしまった。春には余りにも幸せな記憶が多すぎる。母が生きていたらいまのこんな僕をどう思うだろうか。喜ぶはずなどないだろうが、もしかしたら優しくて温かい言葉を掛けて僕を抱きしめてくれたのではないか。そんな想いを巡らせていたら、自分が生まれた春が嫌いだなんて言ってはいけないという考えに行き着いた。




