息ができない
心に傷を負ったものにも、優しい手が差し伸べられている。どんな人にも必ず温かな眼差しが向けられている。
孤独でつらい日々を送っているとなかなか気づけないけれど、その渦中にあっても見守ってくれている人はいる。優しい風が少しでも届きますように。いまはただただ呼吸をしていて。
一、花実の朝
薄曇りの中、母は弟を連れて「花実は連れて行けないから」と言い、四歳の私を一人家に残す日々が続いた。最初は家に一人でいることが怖かったし不安だった。「何故私は連れて行ってもらえないのだろう」と悲しい気持ちでいっぱいだった。
しかし何回かそれが続くと慣れてきて、一人家にいるより公園にでも行こうと思い立った。私はブランコに乗りながら小さな頭でいろんなことを考えていた。本当は迎えに来て欲しかった。
そんなことを考えていたらバランスを崩し頭から後ろに落ちてしまった。私はびっくりして泣きはじめた。すると子どもを連れて公園に来ていたその子どものお母さんが駆け寄ってきてくれて「この子どこの子?」という声が聞こえたところで私は気を失った。
きっと救急車を呼んでくれ病院に運ばれたのだろう。気づいた時は病院のベッドの上だった。看護師さんが「大丈夫?起き上がれる?」と声を掛けてくれ起き上がった私は診察室に連れてこられた。そこは独特な消毒液の匂いが漂っていて子供ながらに少し怖くなった。
すると間もなく医師がやってきた。それと同時にいつもより派手な服を着てけばけばしい化粧をした、いつもより綺麗な母が診察室へと現れた。私は「絶対に怒られる」と思い恐怖を覚えた。またきっと叩かれるとも思い怖かった。
病院の先生が余計なことを言わないでくれることを祈った。先生は「たんこぶができているから大丈夫でしょう。薬だけ塗りますね」そう言って緑色の瓶に綿をつけ私の頭にポンポンと塗ってくれた。
「あー大丈夫かもしれない」そう思った矢先、先生は母に「こんな小さな子を一人残したらいけませんよ」と母をしかりはじめた。私は怒られ叩かれることが決定したと思い、家に帰されるのがとても怖かった。ずっと病院にいたいとすら思った。
しかし母は一切怒らず叩くこともせず「ごめんね」と私に呟いた。私は安堵した。そしてそれから母は私を一人残して外出すことはなくなった。きっと父に怒られたのかもしれない。
それからしばらくの間母は私にも優しかった。私はそれがとても嬉しかった。私には無関心な母が私のことを心配してくれている。その現実が心から嬉しかった。
「早く私を迎えにきて」いつもそこで目が覚める。でももう母は空へと旅立ち私を迎えにきてくれることは皆無だ。こんなに悲しい思いをしたのに私は母が大好きだった。
さて今日も一日がはじまった。私は寝ぼけ眼のまま出勤準備をはじめた。私は行動がとろいので急がなければ。いそいそと身支度をし、軽く朝食を食べ近所の公園の前にあるバス停へと向かった。朝は憂鬱で仕方がないが、毎朝その公園の桜の木を見て力を分けてもらっている。いまちょうど蕾が大きくなってきている。開花が楽しみだった。
二、春太の朝
今日は曇天だな。曇りの日はあまりいいことを思いだせない。僕は物心ついたころから家族は母しかいなかった。母が言うには父親は僕が産まれてすぐに病気でなくなったらしい。でも大きくなってから戸籍謄本を見たが父の名前など全く記載されていなかった。その時「母は未婚の母としてずっと一人で僕を育ててくれたんだ」と思い母には感謝しかなかった。
決して裕福ではなかったが、母はそれを感じさせないくらい僕に愛情を注いでくれた。僕が小学3年生になった頃、母は仕事を変えた。母の口癖は「あなたには大学まで行って欲しいの。お母さんも頑張るから春太も勉強頑張るのよ」だった。
僕は母の言うとおり勉強を頑張った。やってみたいゲームもあったし、サッカークラブにも入りたかった。でも母の頑張っている姿を見るとそんなことは言えなかったし、僕は勉強も好きだった。母の帰りが遅くなるようになってから、僕は料理も少しずつはじめるようした。すると性に合っていたらしく一つの料理を完成させることが何よりの楽しみになった。そして「美味しい」と言って母が笑顔で食べてくれることが心底嬉しかった。
「お母さん」そう言って手を伸ばしたところで目が覚め、母の笑顔が夢の中のものだったことに気づく。
その気持ちは複雑だ。例え夢の中だったとしても母の笑顔を見られた喜び。その反面もうこの世にはいない母には二度とは会えないという現実との狭間で僕は嬉しさの中に何とも言えない寂しさと悲しさを抱く。
こんな夢を見た日は何故か母に見守られているかのような気持ちになり、うざったい毎日でも頑張ろうと思える。そんな思いを抱きながらバイトへと向かう支度をはじめた。僕はいつも朝食を食べない。食べてしまうと何故か体が重くなるような気がするからだ。今日もコーヒーだけを飲み早々とアパートを出て最寄り駅までの道のりを自転車で風を切って向かった。まだ冬だけれど今日は風も春のように穏やかでとても気持ちいい。もうすぐ春がくることを感じて嬉しくなった。今日が良い日になるように願いながらひたすらペダルを漕いでいた。
三、花実の葛藤
私は小さな印刷会社で事務の仕事をしている。アットホームな感じでとても良い職場だ。従業員は総勢二十名で私はその中に密かに想いを寄せている人がいる。営業担当の藤見さんだ。藤見さんはとても優しく社内でも仕事はできるし、人当たりも良いと皆に好かれている。外見もまるで王子様のように格好いいアイドル的存在だ。私のような陰キャな者にも優しく仕事を教えてくれて、入社当時から私は藤見さんが好きだった。でも当たり前のことだがモテるし私なんかの想いが届くことがないのはわかっていた。それでも私は好きな気持ちを消すことはできなかった。
その藤見さんが私の同僚で二期下の河合美礼と結婚することになった。授かり婚だということだった。美礼ちゃんはとても美人な上に陽キャで、藤見さん同様社内の皆から好かれている。二人の結婚は自然の流れで当然なことだとも思った。やっぱりとてもお似合いで到底私が入る余地はなかった。
私は心から祝福したかったし、喜びたかった。でも頭の中はゴチャゴチャとして羨ましいという気持ちが嫉妬に変わりそうで、そんな自分が自分で嫌だった。でも六年もの間想っていたので、気持ちを切り替えるのがとても難しかった。
私は会社で二人の仲睦まじい姿を見ることがしんどかった。そして結婚式の招待状を手渡された時「ありがとうございます、出席させていただきます」そう笑顔で答えたものの心は笑えてはいなかった。私って最低な人間だなと思いながら二人が結婚するまでの間、心が捻じれてしまうのではと思うくらい自分の中の天使と悪魔と戦っていた。
結婚式前日までで美礼ちゃんは退職することになっていた。そうしたら少しは気持ちが楽になるかなと、人として最低なことを考えていた。
四、春太の葛藤
僕は朝から公園にいた。公園の前を通るスーツ姿のサラリーマンを見ながら「僕は何をしているんだろう」そんなことを思いただただ劣等感を感じていた。昼過ぎからコンビニでバイト。週四日五時間勤務だ。空いている時間は通信制の大学の勉強をしている。一応だけど。通信は難しい。自分のペースでやれるのはいいけれど、そのペースがなかなか掴めない。
僕は通学制の大学を中退した。周りの学生についていけなかったのが正直なところだ。いじめというと聞こえが悪いがその行為に僕は負けてしまった。
よくいじめはいじめられた側も落ち度があると言われたけどそれは本当だろうか。僕は自分の行いをよくよく考える。う~ん確かにまあ嫌われやすかったかもしれないけれど、僕は自分では悪いことは少なくともいじめた側の人たちほどはしていないと断言できる。でもすごく悩んだ。その末に鬱症状が強くなり僕は大学から逃げた。
いまも本当は人が怖い。でも働かないわけにはいかない。何故ならもう家族も何もかもいないからだ。「天涯孤独」その言葉が僕を余計に苦しめる。本当の孤独は想像以上だった。高校から付き合っていた彼女にも大学を辞めた時にあっさりとフラれた。すごくショックだったけれど彼女は大学に通っている僕が好きだったんだろう。ステータス、きっとそんな感じ。肩書を失った僕には何もないような気がした。そんな自分を責め自信なんてとっくに失った僕はいまにも発狂でもしてしまいそうなのが怖くて、本当は行きたくなかったメンタルクリニックへ藁をもすがる思いで足を運んだ。
するとそのクリニックには研修医がいたのだが、その研修医は偶然昔住んでいた実家の近所で僕の面倒をよく見てくれたお兄ちゃん、村井薫だった。頭がよく勉強をよく見てもらったりしていたが、まさか医者になったとは。
薫さんはすぐ僕に気付いてくれた。「春太、久しぶり。急に引っ越していったからずっと心配だったんだ。よかったまた会えて。」そう言った薫さんはキラキラと光っていて僕には眩しすぎた。
診察室では五十歳前後のベテランの医師の隣に薫さんが座っていた。医師はまず僕の生まれてからいままでのことを聞いてきた。後で知ったがアセスメントと言うらしい。結構自分の過去を振り返るのはしんどかった。そして自分のいまの症状を話すと「鬱病の可能性がありますね。一回ではなかなかわかりませんが。少し通っていただくことはできますか?もう少しあなたのことが知りたいです。お薬はどうしますか?処方することはできますが本田さんはどう思いますか?」と優しく聞いてきてくれた。僕は楽になりたい一心で薬を処方してもらった。
五、偶然の出会い。(花実の気持ち)
とうとう藤見さんと美礼ちゃんの結婚式の日がきた。私はワンピースにコートを羽織り、朝一番で予約していた美容室で髪をセットしてもらい式場へと向かうための快速電車に乗りこんだ。土曜日ということもありいつもの通勤ラッシュよりは空いていたが、まあまあの混み具合だった。私は少し緊張していた。でもあまり深く考えないようにしていた。しかし電車に揺られているとどんどんといろんな想いが交錯して逃げ出したくなってきた。今日に限って何も飲み物を持っていなかった。まあ結婚式なので荷物を極力減らしたからなのだが。
四駅を過ぎた頃急に呼吸がしにくくなってきた。「どうしよう。苦しい、息ができない」いきなり死の恐怖に襲われながら早く次の駅へ着くことを願いながら「本当に倒れる」そう思った時、途中駅へと着き私は真っ先に電車を降車して人目を気にする余裕さえなくホームにしゃがみこみ膝を抱え精一杯息をしていた。「きっともう私は死んでしまう」大袈裟ではなくそう思っていると、いきなり「どうぞ」という声と温かなぬくもりが手に触れたのがわかった。私がどうにか顔を上げると男の人がペットボトルのホットミルクティーを私の手に握らせ「大丈夫?これ飲んでみて、落ち着くから」と言われ、言われたとおりミルクティーを飲んでみた。不思議なことにそれだけで本当に少し落ち着き呼吸も若干楽になってきた。
「ありがとうございました」そう伝えるとその人は「いいえ、少しは大丈夫になってきた?」と言うので「はい」と答え「お代お支払いします」と言うと「何言っているの?お互いさまでしょ。あんまり無理しないほうがいいよ」そう言って改札へと続く階段へと向かって歩きだした。
私は追いかけることもできず誰もいなくなったホームの上でまだしゃがみ込んでいた。そしてもらったミルクティーを飲み、少しずつ呼吸も楽になっていった。電車を二本見送って私は「まだ間に合う」そう思い意を決して電車に乗りこんだ。そして式場についた頃には呼吸も落ち着き荷物をクロークに預けてみんなの元へ行くと「花実ちゃんの髪型可愛い」と女性の先輩結城さんに言われたとたん緊張の糸が解けて披露宴に無事参加することができ思ったより心から藤見さんと美礼ちゃんの結婚を祝うことができた。自分でそんな気持ちになれた自分が嬉しく思えた。でも頭の中は今日助けてくれた人のことでいっぱいになっていた。そういえば助けてくれた人の年齢は、私と同じくらいだったな。顔はハッキリとは見られなかったが、ラフだけどとても清潔感のある出で立ちだった。私は「神様みたいな人だったな」そんなことを思いながらその人の温もりのようなものをずっと忘れられずにいた。
六、偶然の出会い。(春太の気持ち)
今日は土曜日。僕はまた昼過ぎからのバイトへと向かった。最初はアパート近くの店舗でバイトをしていたが、新規オープンした同系列の店舗スタッフが足りないということで電車で二駅のその店舗まで交通費も全額出してもらえるとのことだったので、ちょっと面倒だったが息抜きにもなると思いオープニングスタッフとして新店舗で働いていた。
僕は土曜日と日曜日のやけに賑やかであったかい雰囲気が苦手だ。僕が世界中でただ独りであることをより強く感じさせるからだ。だから逆に家でゴロゴロしているよりも働いているほうが気分も楽だった。家の中は逆に寂しかった。男として我ながら情けない話だが。
今日は穏やかに晴れていた。いつものように自転車で駅までと向かう途中でとてもいい香りがした。きっと母が好きだった花だ。でも名前は思いだせない。「この香りがすると春がきたなって思うの。ちょうど春太が生まれた季節よ」そんな話を毎年のようにしてくれたのを思いだす。同時に「今日はいいことがありそうだ」なんとなくそんな気がした。
駅に着いたが今日は土曜で休日ダイヤだったのを忘れていた。でもいつもより少し早い電車に乗ることができた。しかしちょっと早く着きすぎてしまったのでちょっとだけ駅のホームのベンチでボーっとしていた。すると快速電車が到着した。僕は「そろそろ行くか」そう呟きベンチを立ったその時女性が電車から降りたとたん倒れこむのを目撃した。「マジか、どうしよう」そう思う間に僕は急いで自販機でミルクティーを買い、その人の元へと駆け寄った。「きっとパニックだ」そう思ったのであまり驚かせないように、「どうぞ」と言って温かなミルクティーのペットボトルをその人の手に少し当ててみた。「大丈夫?これ飲んでみて、落ち着くから」と言ってペットボトルを握らせるとその人は素直にミルクティーを口にした。すると少しは楽になったのか「ありがとうございます」とまだ苦しいだろうに僕に向かって礼を言った。「大丈夫になってきた?」そう聞くと「はい」だけではなく「お代をお支払いする」などと言いだすから僕はビックリしてしまった。そして慌てて「お互い様でしょ。あんまり無理しないほうがいいよ」そう言った瞬間、僕の錯覚かもしれないが少し顔がほころんだ気がした。僕は「この人なら大丈夫だろう」そう思ったので改札へ向かい階段を上りはじめた。「あの子が大丈夫で、無事目的地に着きますように」そう祈りながら・・・。




