【魔王と勇者】短編② 蜂蜜
外伝的なお話です。
時間軸は厳密に指定していませんが、王都襲撃前ぐらいです。
王城での仕事帰りにリリーとも相談し、寄り道をして大通りの方に足を向ける。市場調査というと少し違うが、町の雰囲気を知るには自分で見るのが一番だからだ。
それこそどこでもそうだが祭りの前はどこかざわついた感じがするようなもので、住民に不安がある時は町の空気もどこか澱んでいるような感じがする。疫病が流行している時なんかは誇張でなく町が死んだようになるしな。
ただ、ちょっとした変化とかは感覚によるものだから説明はし難いし、何となくそう思ったというのは報告で口にしない人間も多い。気が付いたら手遅れになるぐらいなら自分で空気を感じるのが一番早い、という訳で自分の足で町を歩く。
「特に不安感とかは感じないな」
「そうですね。楽しそうな子供の声も聞こえますし、親子連れの家族も何人もいますし」
やっぱりリリーは俺とは少し見るところが違うな。俺はつい騎士や衛兵、冒険者や傭兵の顔つきとか、行商人の人数とか商品の数とかを気にしてしまうが、リリーはもう少し生活に近い所を見ている。そういう視点の違いがこの場合はありがたい。
幸い、王都内部もそこまで空気が悪いという事もなかったので、ほっと一息。
「せっかくだしちょっと寄り道していくか。リリーは行ってみたい店とかある?」
「え、いいのですか?」
「たまにはいいだろ。俺も気分転換したいし」
早く帰ってもなんか書類とかはあるかもしれないがそういう気分じゃない。というわけでリリーの行ってみたい店とかを聞いてみる。
「そ、それじゃ……」
リリーが行ってみたいというのは調味料系の店だった。といってもどちらかというと専門店に近い方に行ってみたいとの事。
村ではそんなものはないのは当然だし、貴族の場合はこれこれこういう調味料を持ってきてくれと出入りの商人に注文してしまえばいい。そもそもそう言うのは厨房担当の仕事だし。だからせっかく王都にいるのに自分の目でいろいろ見てみたいと思っても、意外と機会がないのは確かだ。
特に異論もなかったんで手近な商人に聞いて、そういう物の品ぞろえが多い店に足を運ぶ。時間がもう少し早かったら市場に行ってもよかったんだけどな。そっちだと珍しいものもあったかもしれない。
「わぁ」
「ほう」
薬種と調味料を扱うギルドに隣接している本店とでも呼ぶべきところに足を運んで思わず感心。床に置かれた無数の壺には色々な香辛料が入っているし、ハーブ類が天井から吊り下げられている。
壁にある棚には小さな壺が並んでいて、小売りというか小分け売りもしているようだ。紙が高価なせいか、ラベルのようなものはない。必要なものが解っている場合は店員に聞くか、自分で探すかのどっちかというのがこういう店だ。
「凄いですね」
「予想したより種類があったな」
リリーがちょっと高い棚の上にある壺に興味を示していたんで取ってあげつつそう応じる。律儀に俺に礼を言ってから何を漬け込んであるんだろうとちょっとわくわくした表情を浮かべながら壺の蓋を開けているのが見ていて面白い。
「生姜の蜂蜜漬けですね」
「熱くした葡萄酒に入れて飲む奴だな」
冬の飲み物しては定番の一つだ。この世界では子供でもお酒は禁止されていないから、子供のころから飲んでいることも多い。俺は嫌いじゃないってぐらいだが。
というか、葡萄酒の出来にかなりばらつきがあるんで、美味しい葡萄酒に当たった時はそのまま飲みたいんだよ。ほどほどの味の奴に当たった時にそういう一味加えた物を飲みたい。
甘いものに目がないという意味ではリリーもしっかり女の子で、蜂蜜に色々なものを漬け込んである壺が無数に並んでいるのをきょろきょろ見回している。それでも魔物の蜂からとれる高級蜂蜜に手を伸ばさないのは庶民感覚だなと思うよ。
この世界では蜂蜜の歴史がどうなのか知らんが、少なくとも貴族階級の俺はそこそこに入手しやすい立場だから気にしなくてもいいとは思うが、まずはしばらく好きなように見てもらおう。
ところで人類史上、蜂蜜との歴史は長い。『蜂蜜の歴史は人類の歴史』なんてことわざがイギリスにはあったぐらいだ。実際、紀元前六〇〇〇年やそれ以上前に描かれたスペインやトルコの壁画には蜂蜜を採取している図が残っている。
俺個人の意見で言えば、最初に海鼠を食った人間も凄いが、蜂蜜を最初になめた人間も結構凄いと思う。何も知らなきゃ虫が群がっている樹液にしか見えんだろうに。
「あんまり蜂蜜は食べなかった?」
「はい、どちらかといえばお薬でしたから」
「ああ、なるほど」
この世界でもそうなんだな。前世でも甘味は高価であったこともあり、地域にもよるが蜂蜜の用途は嗜好品ではなく薬か防腐剤、調味料として使われていることも多かった。
古代ギリシャではあのヒポクラテスが塗り薬として使っているほか、古代エジプトでは薬のほかにミイラ作りにも利用されている。薬という観点で言えば、中世以前から蜂蜜が喉にいいというのは昔から解っていたようだが、火傷などに塗ったり下剤としても用いられていたらしい。
笑うに笑えないのは出来のあまりよくないワインに蜂蜜を入れて飲んでいたという話。作った以上もったいないから味付けの蜂蜜を入れて飲むではなく、中世では水事情がよくなかったという証拠でもあるからなあ。
薬として見ると、イギリスではキャンディーでさえ中世では薬屋の独占販売だった。ちなみに砂糖やジャガイモも当初は薬屋で売られている。
幼児の夜泣きにアーモンドミルクに蜂蜜を混ぜたものを飲ませたと言う記録があったような気がするんだが、この世界で俺は飲んだ記憶がない。そもそもそれは薬効じゃなくて甘いものを飲ませて満足させているのではという気も。
薬のほかにも調味料、甘味としての用途はいわずもがなだが、化粧品、画材にも使うという形で、蜂蜜の用途は広い。
そのほか、防腐剤として使う場合はアーモンドや栗、胡桃といった木の実のほか、苺……といっても野イチゴだが、それからベリー類、林檎、洋梨、無花果、柘榴、レモン、プラムなんかが蜂蜜漬けにされていた。このあたりは世界さえも問わないらしい。
料理にも使われていて、洋梨の蜂蜜煮なんかはデザートに近いが、葉セロリのフリッターに蜂蜜をつけて食べたとか、蜂蜜とマスタードのソースで味付けしたスペアリブなんかも記録に残っている。
ちなみに地域によるが、中世後期だと宴席の真ん中にどーんと飾られた肉の一番いい所は切り分けてから女性に差し出すのが貴族の礼儀だった事も。これも騎士道精神の一環かね。
「お菓子なんかでも使うんですよね」
「クッキーやタルトなんかによく使うな」
タルトといっても前世では地中海付近と北欧と南欧とで全然レシピが違うんで、これも一概には言えないが。クッキーは薔薇の花びらと蜂蜜を練り込んで作る奴なんかが貴族社会では良く出てきた。
薔薇って育てるのに手間暇がかかるから、庭師を雇える貴族ならでは、という事になるんだろう。そのあたりはこの世界でも同じだな。
ただ、中世のレシピ通りに作ると半分ぐらいの品は前世の俺は食えなかったと思う。果物類は品種改良以前のものだから糖度とかが全然違う。多分、中世レシピを二十世紀以降の果物で作ると甘すぎると思うんだよな。
そう言えばこの世界には祭日の一つに聖恩祭というのがある。初代聖女様が初めて神託を受けた日だそうだが、事実かどうかはこの際関係ないだろう。この日だけはある程度の贅沢もお目こぼしされる、限定的な無礼講の日になっている。
酒を飲んで騒ぐほか、ケーキなんかを食べるのもこの日ならありだ。祭りという形で庶民のガス抜きをするのは洋の東西を問わないが、異世界でもそうらしい。学園でもこの日は料理が豪華になったような記憶がある。
俺が知る限り、この日に出るケーキの中にはケーキは蜂蜜と小麦粉の量が同じっていう物があった。そこにバター、牛乳、卵にシナモン、ナツメグなんかを混ぜて練り込んで焼くという、聞いただけで甘そうだなあという代物だ。
「村ではケーキとかも?」
「蜂の巣はお金になりますから」
「それもそうか」
蜂蜜もそうだが、蜜蝋から作る蝋燭は煙が少ない。獣脂から作られる蝋燭と比べると煙がほぼないといってもいい。だから教会や貴族は屋内では蜜蝋製の蝋燭を使っていた。古い教会建築でも煤による汚れが少ないのはこれが理由だな。
その結果、貴族御用達の商人が買い取るんで、野生の蜜蜂の巣は村落では貴重な収入源とも言える。蜂蜜を村落で共有管理、保存したりすることはあっても、個人の家で甘味として楽しむことはあんまりないようだ。それこそ祭りの時とか限定だろう。
そのためか、これは前世の場合だが中世の中期ぐらいまで養蜂は貴族関係者や教会が中心に行われていた。むしろ独占していたという方が近いかもしれない。需要が多くなった中世後期からは民間養蜂家も増える。
修道院の裏手にはだいたい蜜蜂の巣箱が作られていたのは、自給自足が建前の修道院裏には畑があったせいだろうな。
この世界ではどうなんだろう。詳しく知らんが、似たような状況になっているとしたら、村人が口に入れるためには野生の蜜蜂の巣を見つけるしかなかったかもしれん。
ちなみにこの頃は巣箱を人家近くに置くことが推奨されていた。当時の手引書のようなものには“人の姿を見慣れた蜂は人を刺さなくなるため”とか書いてあるがほんとかよ。
「まあ、巣箱があったらあったで変な裁判が起きたりするしなあ」
「そうなんですか?」
とリリーが不思議そうに聞いて来たが、これは実際確認しないとわからないかもしれない。前世の中世でもあったが、広い畑の所有者が養蜂家の家に花粉代を払えと裁判を起こす事があるんだ。蜂蜜が取れるのは自分の畑があるからだ、だからその分の代金を支払えという訳だな。たまに現物で蜂蜜を要求するようなこともある。
もともと領主は蜂の巣箱に税金をかけているんで、更に収入が減ることになる養蜂家のほうはたまったものじゃない、という事でたまに裁判が起こるわけだ。中世後期に森の中に巣箱を置くようになると、巣箱を置いた側の村が近隣の村に設置代を払ったという話もある。
ちなみにこういう領内の裁判を裁くのは領主夫人の管轄範囲。貴族の女性名ってこういう記録で残っていることも多い。
「蜂蜜のお酒もありますけど、ヴェルナー様は……」
「俺はあんまり飲まない」
水と蜂蜜があれば酒ができる。人類最古の酒という説もある蜂蜜酒だ。前世欧州ではブドウの栽培に適さない北欧あたりでは良く作られていた。嫌いというほどじゃないんだが蜂蜜によって香りや味がかなり変わるんで、割と好みが分かれる事が多い代物だ。蜂蜜から作られていても甘口と辛口があり、名前から甘いと思って飲んだら酸味のある辛口で面食らったという人もいる。
それ以外にも蜂蜜の酵母を使ったビールもある。人類は酒を飲む努力は怠らないなと思うが、異世界でもそうなんだろうか。
「蜂蜜を酪農粥にかけて食う事はあったな」
「病気の時に食べたりしますよね」
ヨーグルトに麦の粉を入れて粥のようなペースト状にした物に蜂蜜をかけて食べる食べ方だ。確かに栄養価は高いように思う。リリーの言うように病人にもよく作られた。材料が麦の粉じゃなくパンだった事もある。
しかしこうやって考えると蜂蜜は結構使っているな。
「……ん」
「何かありましたか?」
「ああ、いや、ちょっと思い出したことがあるだけで急ぎじゃない」
事実なんでそう言ったらリリーも納得してくれたらしく頷いて品物の方に視線を戻した。息抜きしてるんだから今すぐに必要でもない事を相談はしない。
結構使っているで思い出したが、俺の知るような蜂の巣箱、あの枠に網を張ってあって箱から取り出せるタイプの物は、前世では十九世紀になるまで存在していなかった。それまでは蜂蜜を手に入れるたびに蜂の巣を壊して取り出していたはず。だから蜂の被害も少なくなく、繰り返しコンスタントに採れるような養蜂業は近代まで存在していなかった事になる。
もしこの世界でもそうなら蜂蜜の増産に繋げられるかもしれないな。巣箱がどういう状況かを確認して、もし壊すタイプの箱を使っているのなら改善できることになる。リリーに図を描いてもらう事にしよう。
ただひとまず今日のところは。
「メイドや使用人のおやつにいくつか買って帰ろう。俺からの差し入れで」
「はい、ありがとうございます」
貴族からの厚意を受け入れないわけにはいかない、という考え方があるのかもしれないが、素直に差し入れを受け入れてくれたのはありがたい。木の実や果実を漬け込んである小さな壺をいくつか選び、リリーにも選んでもらう。
ちなみに売っているのは壺単位でも、当然ビニール袋なんてものはないから、持ち運ぶものを持ってきていないときは店で購入する。藁などでできた籠の方が安く、布製の袋の方が高い。
革袋を売っていないのは皮革ギルドの系列店でないと販売していないからで、このあたりは不便なところだな。まあ貴族の俺の場合、館まで運ぶように言えば済んじゃうんだけどさ。
運び賃と手間賃を置いてそれで済まそうとしたら、ちょっと残念そうなリリーの表情が目に入ったんで内心で苦笑。うーん。
「それと、そっちの蜂蜜の小壺を籠に入れてくれ。そっちは持って帰る」
店員に指示して軽いものを選んで用意させ、それをリリーに差し出す。
「悪いけどこれを頼む」
「はっ、はいっ」
嬉しそうに手に取るのを見てやっぱり何か自分で持ち帰りたかったのかと納得。散歩に出た子犬が小枝をくわえて持ち帰ろうとしているのを連想してしまったが、一応それは言わない方がいいだろうな。
なお館に戻った後、壺の蜂蜜はそのままあげるから食べてくれといってそのまま預けておいた。そうしたら後日茶菓子に出てきたパイに蜂蜜がかかっていたんで微妙に苦笑い。
お茶を入れてくれたリリーがわざとらしく明後日の方を向いて知らんふりをしようとしていたんで、また貴族流のお誘いをして半分食べてもらう事にした。
美味しくいただきました蜂蜜をヴェルナーとリリーにもおすそ分け。
千葉県のK様、再びの差し入れありがとうございました。