試行
私の安全が保障された場所で眠って、起きて、を繰り返しているうち、色々と物事を考える余裕が生まれてきたのは嬉しいことだった。何も考えず、ただ時間を刻んでいくのも悪くはなかったが、それは自分に纏わる最低限のことを理解した上で選択できる過ごし方だ。そもそも、ここには時間というものが存在しているのだろうかとも思ったりする。
時間とは変化だと思う。氷は時間が経てば水となり、血液はやがてかさぶたとなる。私が来たばかりの頃は優しかったあの子は、今はもう私のことを良く思っていない。これは紛れもなく変化と言えるだろう。そのため、この世界にも時間は存在するのだろうとは思う。
それともう一つわかったことがある。私のことを良く思っていないあの子が、どうして顔を引きつらせながらも、こんなに私に尽くしてくれるのか。
あの子の使命は「世話をする」ことなんだ。あの子が忙しなく上っていく螺旋階段の先からは、大勢の泣き声が聞こえていた。微かに見える、つるや葉っぱでできた小屋からは、呻き声や叫び声が漏れていた。それらの声はあの子が行くと落ち着き、すやすやとした寝息へと変わった。忙しそうに走り回るあの子の汗の光る額や、茶色く汚れたエプロンを見ていると、私はなんとなく終わらせてあげたくなった。
ABスターと呼ばれる少年に、ここへ連れて来られたときには、あの子はとても温かく私を迎い入れてくれた。
「ようこそ、私の可愛いひと」
意味がわからず黙っていたら、ABスターが「マゼンタは、君の面倒を看ることが生きがいになるんだ。だから安心してここにいて良いんだよ」と言った。今ではその言葉の意味がよくわかる。
ここでは皆それぞれに使命があり、その使命に従って生きている。だからマゼンタがどんなに大変そうでも、疲れて終には倒れてしまっても、誰も助けたりなんかしないんだ。だってしばらくしたら、彼女を求める声に反応して、マゼンタは自力で立ち上がることができるから。
姿は見えないけれど、降り注ぐ泣き声の持ち主の使命は「泣くこと」だろうし、呻き声の主も同じような使命を背負っているのだろう。そうやって、この世界は成り立っているのだと思う。
それならば、私だって自分の使命を全うしても良いのではなかろうか。
「ミファ、ここには慣れた? 何か食べたい物や欲しい物、してほしいことがあったら私に言いなさいね」
「はいマゼンタ。ありがとう。あなた、自分の使命にとても忠実なのね」
「私は必要とされてこそ存在価値があるのよ。お礼は嬉しいけど、感謝されるためにやっているんじゃないの。誰かの叫びに応える、それが私の使命なのよ」
「素晴らしい使命ね。でもマゼンタ。あなたに一番近いものが、ずっとあなたに助けを求めているよ。それには気付いている?」
「……あら、ごめんなさいねミファ。目の前にいるあなたのSOSに気が付かないだなんて……さあ、遠慮せず何でも、して欲しいことを言って」
「違う、マゼンタ。あなた自身が、あなたの悲鳴に気付いていない。あなたは他人の声には敏感であって、それはとても素晴らしいことだけど、自分の声はまるで聴こえていない。あなたは限界を迎えているはずよ。子供の背中をさすりながら、何度このまま共に眠ってしまいたいと考えた? 食事を用意しながら、何度それらを自ら平らげることができればと願った? あなたは自由で、許されている存在なの。あとはそのことに、あなた自身が気が付けばいいのよ。自分の世話をすることも、あなたの使命なのだから」
マゼンタの皺だらけの顔が、一切動かなかったのは初めてのことだった。大勢の叫びを吸い込んだ眼球が私を縛った。私の使命を、睨んでいた。
「私は大丈夫よ。じゃあ行くわね」
そう言い残し、マゼンタは部屋を出て行った。ドアを閉める音が、いつもより少しだけ大きかった。
私はマゼンタの額から流れ出た汗が、耳の横を通過する過程を思い出していた。