絵馬の願い(短編 25)
この日。
佐々木は一人で某神社を訪れていた。
その神社は近在ではもっとも由緒があるらしく、帰りに絵馬を奉納すれば、その願い事が叶うという噂を耳にしたのである。
佐々木は参拝をすませたあと、さっそく売り場の授与所で絵馬を買い求め、それから真剣に祈りながら願い事を書いた。
――美智子さんと一緒に暮らせますように……。
美智子さんは佐々木の意中の女性。同じ職場の三歳年下の同僚で、色白の美人なうえに気立てもいい。ただ残念なことに片思いだった。
佐々木は絵馬奉納所に行き、願い事を書いた絵馬を絵馬掛けに吊るしにかかった。
と、そこへ……。
年老いた小柄な男が、己の背丈ほどもある長い杖をつきつつやってきて、吊るされた絵馬のひとつひとつを手に取っては、それらに書かれてある願い事をノートに書き写し始めた。
たとえ願い事とはいえ、絵馬に書かれたことは個人情報で、それをノートに書き写すなどもってのほかである。
「あんた、そこで何をしてるんだ!」
佐々木は男に詰め寄って、声を荒げた。
「ごらんのとおり願い事を写し取っておるんだ」
「そんなことぐらい見ればわかる。書き写してどうしようというのか聞いてるんだよ」
「みなの願いを叶えるためではないか」
「願いを叶えるだと? あんた、いったい何様のつもりなんだ」
「この神社の神だが」
「神?」
「ああ、そのとおりだよ。ところでおまえの願いは何だ、ちょっと見せるがいい」
男は佐々木の手にある絵馬をのぞき見た。
「この美智子さんというのは、おまえと同じ職場で働く山田さんという人だな」
佐々木は大いに驚いた。
絵馬には美智子さんとしか書いていない。そして美智子さんの姓は山田というのである。
「何でわかった?」
「だからワシは、神だと言っておるではないか」
「偶然ということもある」
「だったら言うがな、おまえはこの女を好きになって二年になる。だが情けないことに告白もできず、いまだに片思いだろ」
神だという男はそう言って高笑いをした。
すべて当たっていた。
ここに至って佐々木は、目の前の男を神だと信じるしかなかった。そして神様なら失礼があってはならない。何しろこれから、絵馬に書いた願い事を叶えてもらわなければならないのだ。
「いや、お恥ずかしい限りで。でも、よくそこまでおわかりに」
「それくらいわからんでは、絵馬の願い事は叶えられんからな」
「たしかに……」
「ごらんのとおり、この絵馬掛けには絵馬がいっぱいであろう」
「はあ……」
「これらすべての願い事を叶えるには、とにかく時間がかかるんだよ。それで片付けられて燃やされないうちに、こうしてノートにメモをしておるんだ」
「そうだったのですね」
「ちょっと時間はかかるが、おまえの願いも必ず叶えてやるからな」
「本当ですね!」
「ああ、楽しみにして待っておれ」
「ありがとうございます」
佐々木は神様に向かって深々と頭を下げた。
そして……。
佐々木が顔を上げたとき、目の前から神様の姿は消えていたのだった。
あの日から五十年が過ぎた。
佐々木は八十歳となって、今は介護施設に入所している身だった。
この日。
佐々木は食堂で、ほかの入所者らと朝食を取りながら、五十年前に絵馬奉納所で出遭った神様のことを思い出していた。そして、この神様を思い出すたびに腹が立ってくるのだった。
なぜなら……。
あれからすぐに、美智子さんにプロポーズをしたのだが、あっけなくフラれてしまった。あのとき絵馬に書いた願い事は叶うことはなく、またその後は結婚したいという女性も現れず、佐々木はずっと独身のままで過ごしてきたのだ。
「くそー、何が神だ。何が願いを叶えてやるだと。あのウソつきのペテン野郎め!」
佐々木の口からついつぶやきが漏れた。
と、そのとき。
「失礼なやつだな」
佐々木の頭の中に男の声が響いた。
見まわすも近くに声の主らしき人物はいない。
そこで佐々木も頭の中で問い返した。
「だれだ?」
すると再び頭の中で声がした。
「忘れたのか。ワシは五十年前、絵馬奉納所でおまえと遭った神だよ」
「おお、あのペテン野郎の神か」
「思い出したようだな」
「ああ、忘れるもんか。それよりおまえ、美智子さんと一緒に暮らしたいという、絵馬に書いたオレの願い事はどうなったんだ! あのとき、必ず叶えてやると言ったじゃないか」
「約束どおり、オマエの願い事は叶えてやったではないか。順番があって、ずいぶん時間がかかったことは申しわけなく思うがな」
「叶えただと? いいかげんなことを言うな!」
「ウソなものか。おまえは今、望みどおり彼女と一緒に暮らしておるではないか」
「どういうことだ?」
「よく見るがいい、テレビの前の車椅子に乗った女性を」
「あの白髪の婆さんか?」
「ああ、そうだ」
その女性は木下さんという名前の、自分と同じようにこの施設に入所している老婦人だった。
「あの婆さんは木下さんという人だぞ」
「結婚して、山田から木下になったんだよ」
「えっ?」
木下さんはボケている。
そういうこともあってこれまで、佐々木は一度も彼女と話したことはなかった。
次の瞬間。
「あっ!」
佐々木は思わず声を上げていた。
あらためてじっくり顔を見るに、木下さんには若き頃の山田美智子さんの面影が残っていたのだ。
それから二度と……。
佐々木は神様の声を聞くことはなかった。