道場にて
剣の鍛錬を行う道場、といってもローマの闘技場のちょっと小さいヴァージョンに姫崎見には見える道場から息が上がって、それでも爽快な汗をかいた表情の兵士たちとすれ違う形で、兵士たちの最後尾からやはり蒸気をいかんなく発散させるフィフェティ・パースペクティブに手を上げた。
「疲れてないのかよ」
激闘を終え、その後も事務処理だのが立て続いていた。
「それとこれとは別だ。いつ何時魔獣が現れるとも知れん。鍛錬をおろそかにはできまい。それを言うならケンの方だろ」
フィフェティの視線が姫崎見の手に向けられる。慰労会がおにぎり作成競争会に移行しただけではなく、味噌汁を含めお料理教室が催され、もはや異世界の勇者なのか調理人なのか訳の分からない扱いになっていた。
「まあ、ほどほどに。こっちの料理も珍しくて勉強になったし」
本人もすでに主夫視点で、魔獣討伐に貢献した自覚もなくなっていた。その上、
「おにぎりで魔力回復するなら、寿司だったらどうなるんだろうな」
そんなことまで思いついたのだ。今更だが。
「すし?」
「そこは片言じゃないのかよ。ああ、寿司。寿司ってのはな」
回転寿司店でバイトしたこともその予定もなく、かといって板前の修業に入ろうと思ってもいない姫崎見だが、かっぱ巻きに始まり、納豆巻きや鉄火巻きや太巻き、さらには恵方巻経由で握り寿司さえもこしらえた経験を踏まえてその造形を意気揚々と話したのだが、
「魚をオニギリの上に……? お前は何を言っているのだ」
どんなイメージを想起したのか、異世界の女騎士は異世界の食事に何度目かの驚嘆である、今更だが。頭を抱える姫崎見だが、
「なんか、こういうやり取り、懐いな」
にんまりとささやいた。
「何か言ったか?」
怪訝なフィフェティに顔を上げ、そのひん曲がった表情に和んだ。
「いや、なんでもない。それでこれはどうすればいい?」
用件はフィフェティの鍛錬メニューの確認でも、姫崎見の料理人への旅の決意表明でもない。姫崎見の掌にはキッチンタイマーがある。地元とラワタを行き来できる謎のツール。恐らくはフィフェティがやらかした秘術の結果なのだが、
「モーニン・グコールの影響なんだろうな、やはり」
もうブランチの時間かもしれないが、起床ほどなくならまだしもすでにすっかりアクティブ活動終了している。結果、姫崎見が聞き直す事態。
「ああ、秘術の名前だ。言ってなかったか?」
フィフェティが行使した魔術が秘術だとは聞いていたが、それが何が起こるか分からないから秘術なのだと聞いていたが、その名称は聞いたことがない。
「モー」
「モーニン・グコールな」
なるほど。異世界の秘術によって、キッチンタイマーが鳴り、姫崎見が気付いてしまった。
「いや、鳴ってねえよ。キッチンタイマー。それに俺が」
いきなり活性化した独り言なので、フィフェティは目を開いて驚く。
「なんでもない」
取り乱したことを謝罪し、どこにも向けられないやるせなさで肩を落とす姫崎見に、フィフェティは首を傾げる。なにせ、キッチンタイマーはラワタにはないキッチングッズなのだ。どういう原理が働いてラワタで起こした魔術が地球で現象になるのか、秘術とだけしか、いやそれをひっくるめて秘術だと思っているフィフェティには、姫崎見の身の上にはシンプルに同情を寄せるしかない。
それよりもである。
「で、これはどうすれば?」
魔術の名称に気を取られてしまったが、本題に戻らなければならない。とはいえ、
「どうするかな?」
地球の日本の姫崎見様宛に狙い撃ちで送付したわけではないので、魔術をやっちまった本人にも答えようがないのは無理もないことではある。が、姫崎見は遺失物を偶然拾っただけであり、持ち主ではないが製造責任でもないだろうが、ともかくそれを出した本人に返すのも筋ではある。受け取ったフィフェティには使い道はないのだが。
その時。キッチンタイマーが鳴った。タイマー設定もしてないのに。デジタル表示にカタカナが現れる。「オモチカエリクダサイ」。姫崎見が確認すると、その後カタカナでもない記号となったので、フィフェティに見せた。
「……師匠からだ。伝言なのだろうが、一体どうやっているんだろう」
魔術がある世界にいる人間が分からないと言っている現象を、姫崎見が分かるはずもない。
「ああ、そうか」
キッチンタイマーが移送機になっている以上、持ってないと日本に帰れないのだ。掌のキッチンタイマーから視線をフィフェティに向けて見た。それ以上は聞くまい。いや聞けない。なぜなら女騎士はお手上げのジェスチャーをしていたからである。
用件が終了した以上、姫崎見はおいとまする。キッチンタイマーを本当に今更角度を変えて眺めながら歩き出す。
鍛錬の時間を終えた女騎士も続く。キッチンタイマーを見続ける異世界からの男子の背を見つめた。あのキッチンタイマーが光れば、救国どころか自らを救ってくれ、料理を振る舞ってくれ、異文化を教えてくれた人がいなくなる。鍛錬がもう終わっているのに、突然フィフェティは動悸が強くなるのを感じた。
「なあ、ケン」
言うと、おにぎりによって活躍した男が不思議そうに振り向いてくれた。
「よかったら」
意図せず口が動いていた。だが、その先をフィフェティは自制した。姫崎妙の顔が浮かんだからである。
「いや、なんでもない。帰ったら妹君、……タエによろしくな。それとすまないと」
フィフェティの意図が読めなかったが、労いの言葉には短い言葉で応答した。
ずんずん進む姫崎見を見やりながら、歩みを止めたフィフェティは
「私は何を」
目をぎゅっとつむって小声を吐いた。叱っているような強さで。
――ケンには帰って欲しくは
そんなことがよぎった心をフィフェティは窘めたのだ。




