平原にて
すると、現状である。広大な平原に立っていた。白い山脈が地平線の向こうに連なっている。数百メートル先には木々が並んでいる。林ということはない。森だろう。遠足やピクニックに来たら、羽を伸ばしさぞかし穏やかな時間を過ごすことが出来る場所だ。すっかり馴染の街の様子ではない。戻ろうにも方向感覚が失われた、あるいは麻痺しているような感じ。だとしても、あがかなければならない。けれども、現在は緊張に襲われてしまった。なぜなら、目の前に女騎士と魔物が現れたからである。空から降って来てわけではない。戦闘場所を移動しながらやって来たのだろう。学生鞄を持つ制服姿の一介の高校生はただ茫然とその攻防を見ているしかできなかった。
動けたのは女騎士が魔物に張り飛ばされて、姫崎見の横に膝をついたからである。ガン見である。金髪をまとめ上げ、りりしい顔立ち。身体には汚れ傷ついた鎧。兜を被ってないのは、戦闘中にすでに剥ぎ飛ばされたのかもしれない。
「何をしている。どこから現れた。なんだ、その格好は」
女騎士は身を起こしながら続けざまに荒々しく尋ねてきた。その割に剣を両手で構える。答えを聞こうとはしてないのだ。それはそのはずだ。魔物が数メートル先で咆哮し始めたからである。コスプレではない。シリコン製のゴム感は魔物の皮膚からは感じられない。それどころか体臭が生ごみとか泥とかタンパク質の焦げた匂いとかそういう類とは違った、「ザ・魔はこれ」みたいな匂いだ。背後に回ってチャックがあるかないか確かめたいと思えるくらいの若干の心の余裕があったものの、「きっとないだろうな」くらいにはその迫力に押し負けないように力を踏んばって立っているのがやっとだった。
姫崎見にとって魔物としか言えないのだが、それというのも男子高校生の割に漫画やアニメ、ゲームなんかにどはまりしたわけではなかった。あくまで交友関係維持上の一通り程度だった。だが、姫崎見が魔物と受け止めたのも間違いはなく、女騎士をはるかに超える図体と容姿からして、言うなればガーゴイルに似ていなくもない。
「私が引きつけている間に、さっさと逃げろ」
女騎士は姫崎見の応答を待たず、魔物へ走って行ってしまった。姫崎見はあっけにとられるしかない。
自らの身長よりもはるかに高い魔物の攻撃をしのぎながら剣を振るう女騎士。十七年の人生で殴り合いのケンカはほんの指で数えるしかなく、ましてや剣道の経験のない姫崎見でさえも、女騎士が劣勢だというのは容易に見て取れる。なんといっても魔物がひるんでないのだから。
女騎士の剣と魔物の鋭利な爪とのつばぜり合いを経て、魔物は距離を取った女騎士に口から炎を放って攻撃した。かろうじて直撃を免れた女騎士がまたしても姫崎見の横で膝をつく。これまでの打撃戦の疲労に加えて、軽度だが火傷を負ってしまっていた。
「な、何をしている。逃げろと言ったのだぞ」
満足に目を開けてさえもいられない女騎士からそんな非難をされても説得力が感じられない。姫崎見としても逃げたいのはやまやまだったのだが、状況に食い入ってしまっていたのだ。むろん、こんな異世界転移ファンタジーが眼前に繰り広げられ、まさか自分が救国の勇者として活躍する、そんな妄想または空想が現実逃避的思考のおかげで思いつかないなんてことはない。だが、チート的秘術だとか剣術だとかを検証している暇はない。待てと主張して待ってくれるような魔物には見えない。ましてや、全中にもインターハイにも出場したことがないどころか部活に所属していない男子高校生がせめてもの逃避を試みられるはずもなく、まして医療的救急処置的技能を有しているはずもない。ただ救急救命の市民講座を受講しようとは思っていたのだが。というわけで自ら戦うことも、女騎士を手当てすることもできない現状なわけである。
クウーーーッ
女騎士が間の悪い顔をした。異世界でも空腹の時の音は共通なようである。この緊迫した状況。アドレナリンによって消化器系が抑制される生理学的反応は異世界では異なるのだろうか、そんな揶揄みたいな思考のおかげで、姫崎見は肩の力が抜けてしまった。それから、おもむろにまだ今にもずり落ちそうだった鞄をあさった。
「食べる?」
女騎士に差し出した。お手製の見事な三角形をしたおにぎりである。彼は弁当を自分で作っている。おにぎりの他にもおかずもある。が、この現状で箸を持って――そもそも女騎士が箸を使えるかどうかも怪しいし、アーンをするのも恥ずかしい――食っている暇はなさそうなので、アルミホイルに包んでいたおにぎりを差し出したのだ。
「食べ物、なのか?」
どうやら彼女はおにぎりを知らないらしい。アルミを外して渡した。女騎士は恐る恐る彼を見習ってそーっと摘んだ。姫崎見は食べるジェスチャーをして見せた。物を知らなければ食べ方も知らないだろう。女騎士はおにぎりを手にしたまま、姫崎見を見習ってエアおにぎり食べシミュレーションをしてから、喉を一度鳴らして、まるで昆虫を初めて食べる時のように決然とした表情をしておにぎりにかぶりついた。咀嚼する。目を見開いた。食べる速度が上がった。早食い大会決勝レベルである。もはや頬張っている。音を立てて喉から胃へ落ちて行った。おにぎり一つなど空腹を満たす量ではないかもしれないが、当座の一時しのぎには十分なはず。ところがである。
数秒。
「おおぉ。おおおおぉ」
女騎士に鋭気が宿った、どころの騒ぎではない。身体のそこかしこの傷や火傷が瞬く間に治癒されていった。その上、やる気・元気・根気までもフルゲージで回復したばかりではなく、姫崎見はオーラ的な圧倒ささえ感じるほどである。
「礼は後ほど」
すっかり爽快な表情になって、女騎士は魔物へ一直線。それまでの悪戦苦闘が嘘のように、分が傾いていった。当然魔物はブチ切れて、やたらめったらに炎を吐きつづけたり、爪を伸ばして乱打してきたりと攻撃力を上げている。
「すまんが、先ほど食させてもらったものはまだあるか?」
魔物の攻撃を巧みにかわしつつ、姫崎見の立ち位置まで戻って来た。
「……はい」
やはり、一つでは満ちなかったのか。求めるままに差し出した。二個目のおにぎり。アルミを剥いでむしゃむしゃとかぶりつく。
「すっぱ! なんか、かつてないほどに」
その割にがっつくことを止めはしない。非常時である。まさに腹が減っては戦えはしないのだ。
「よし!」
女騎士は充実した気を堪能する表情で、
「感謝する」
それまで以上の高速で魔物の元へ。詠唱をすると剣が輝きだし気合と共に跳躍。魔物を頭上から一刀両断した。真っ二つになった魔物の身体は地に倒れた拍子に勢いよく炎を上げて燃え、あっという間に鎮火した。
呆然とそれを見ていた姫崎見に、剣を納めて寄ってくる女騎士。
「まるで魔術によって身体機能が向上したような感覚だ。魔力を消費しないどころか、回復さえしたようだ。あれはいったいなんだったんだ?」
女騎士から問われても答えない、答えられない。なぜかと言えば、男子高校生は呆然としているから。
「おい! しっかりしろ」
肩を強く叩かれて正気に戻った。
「え? あ」
おかげで、「なんでここにいる」だとか、「彼女は何者なのか」だとか、「ここはどこ」だとか、「どうやって帰ろうか」とか、などなどが急に突沸した。が、あまりに慌ただしすぎて、却って言葉が詰まってしまった。
「まあ、いい。ここではなんだし、城まで来てくれ。話しを聞きたいし」
女騎士は背を向けて一歩を出してから振り返って、
「礼を、しなければならないしな」
柔和な笑顔を向けてから、歩き出した。
立ち尽くすだけしか思いつかない姫崎見は、女騎士についていくしかなかった。あまりの出来事に彼はズボンのポケットにキッチンタイマーがしまわれていることを自覚していなかった。