姫崎妙はうろたえる
「どうしよう、どうしよう」
気を取り直した姫崎妙がようやく慌てふためくことができるようになったのは、目の前で兄が消失し茫然自失となって一時間弱になろうとしていた時だった。それでも、ただうろたえばかりで平静でなかったというのは、まずリビングをあてどもなく小刻みに歩き回ることしかできなかったことからも容易に察せられる。警察に通報すると言っても、家の中からほんの数秒で兄がいなくなったという供述がどこまで聞き届けられるだろうか。単なる外出と説得されるのがオチだ。失踪がもう何日にもわたっているわけではないのだ。
「えっと、えっと」
スマホを探す。ソファに座っていたからその辺りにあるはずなのに、ない。リビングのそこここを目を通した。雑誌もはぐってみたし、食器棚の一つ一つも開いた。
「もうこんな時に!」
焦る。イラつく。同じ場所を探す。見つからないから、なおのこと動作の一つ一つがぎこちなくなって、それがさらに気を急かす。
「平先輩は……、鶴子さんは……」
兄の交友関係を思い出す。こういう時の対処の知恵を教えてくれるかもしれないし、駆け付けて来てくれるかもしれない。なにか事情を知っているかもしれない。だから、見つからないスマホをあたかも暗中模索するような目つきであちこち見やる。
「いけない……」
動きが止まった。身体が震えだした。それを抑えようと両手で交差した下腕を力いっぱいに握った。震えは止まらない。
「おに、……お兄ちゃん……」
体の芯から込み上げてくる。恐怖と不安と孤独と喪失感が混じり合ったような息苦しさ。氷になっていくとも感じられた。
デジタル音が短く鳴った。
取り乱したように漁った。スマホを取り上げた。探したはずのソファに置いてあった雑誌に半分隠れていた。震えながら画面をタップした。
「驚かしたらごめんな。俺は大丈夫。すぐに戻れるから」
兄からのメールだった。あまりに暖かく、それこそ体の芯から熱くなった。へたり込んだ。さっきまで聞こえてさえいるようだった、水が凍って行く時のミシミシという音は気づけばもうなくなっていた。震えももう止まっていた。体温よりもずっと熱い流れが胸から喉、顎へ上って来た。頬は瞬時に火照った。よく照ったストーブの前でさえ何分かさらしてないと感じられないような熱さだ。
「お兄、ちゃん」
あてどもなく溢れてくる涙。姫崎妙はそのまま気を失った。
その視界は夢なのかもしれない。夢だとしても、それがなんであるかはっきりと示すことはできる。姫崎妙自身の記憶であり、思い出だった。
幼い頃の自分がいた。椅子で楽しそうに足を振っている。日曜日だろうか、母と兄が並んでパンケーキを作っていた。それをじっと見ているのだ。
「妙も作らない?」
母がにっこりと問いかける。
「タエはお母さんとお兄ちゃんが楽しそうに作っているのを見るのが好き」
ウキウキと弾むように話す妹に兄は
「おいしいのができるからな」
母を手伝っている兄が自慢げに笑いかけてくる。出来立てのそれを並んで頬張るのが、本当にうれしかった。頬が痛いくらいになったのは、詰め込んだパンケーキのせいか、楽しさを噛みしめていたせいか。
そんな時間を指折り数えたらきっと四肢の指では全然足りない。
その楽しい時間は突如終わった。
父と母が亡くなった。事故だった。泣きじゃくり、元気もやる気も楽しいことも感じなくなった。
ある日、兄がパンケーキを焼いてくれた。こげがあった。形もいびつだった。かろうじてハチミツをかければよかったが、苦いところが少なくなかった。生焼けっぽいところもあった。涙が伝って来た。兄は慌てて寄って来てティッシュボックスから何枚もティッシュを出して渡してくれた。それでもどうしていいか分からなくなった兄はタオルを取りに洗面所に行った。まだ兄には言ってない。おいしくなくて泣いたんじゃない。母を思い出して泣いたんじゃない。父も母もいなくなってしまったけれど、兄はいてくれるんだと噛みしめることができ安心したのだ。その日から、兄が作ったものを食べるということは家族の存在を感じ、翻って自分も生きていられる実感を持てることになった。
「そう言えば、お兄ち、……お兄に『おいしい』って笑えたのは最近あったかな」
宇宙に独りぼっちになってしまって地球を懐かしがる。もう宇宙のどこにいるかも分からない遠くに来てしまったような。そんな場所でさえ兄の声が聞こえる気がした。はっきり聞こえるわけではない。けれど、自分の名を呼んでいる。間違うはずはない。何度、というのもあきれるくらいに、ずっと聞いてきた、呼ばれていた名前なのだ。
「お兄……」
目が開いた。リビングだ。灯りがついていた。外はもう暗かった。ソファに横になっている。
「妙、大丈夫か?」
キッチンから兄が駆け寄って来た。
「えっと、事情はまた今度機会があったらってことで、夕飯は昼の代わりにハンバーグで、餃子は明日に、……、妙?」
ソファから滑るようにして床に腰が落ちた。兄のシャツの襟元をぎゅっと握ると、その胸に頭をぶつけた。
「驚かせたな、ごめん」
姫崎見は妹の頭に手を置いた。姫崎妙は、声を押し殺して泣きじゃくった。




