第90話 帰還
異世界へ転移した時と同じようにほんの瞬き一回分。コンマ数秒で元の場所へと移動していた。屈んで手を伸ばしている私の目の前でベニテングダケが元気に生えている。
召喚された瞬間と同じ日へ戻れたのだろうか。それとも違う日時、または平行世界のどこかへ戻ったのだろうか。空気は冷たく乾燥していて着ているコートがちょうど良い。伸びていたはずの髪はなぜかボブカットに戻っていた。辺りを見渡すが、記憶の中での元の世界との違いが分からないので仕方なく自宅への道を歩き出す。
途中人とすれ違う事もあったが、いきなりすれ違った人から「今って何年何月何日ですか?!」って聞かれても走って逃げるだろう。交番に行って「この世界は私の居た世界と同じでしょうか」とか言ってみても病院に送られてしまうかもしれない。自宅へ帰って、カレンダーとテレビを確認しよう。
自宅であるアパートにたどり着く。鍵を……鍵? 失くさずに持っているだろうか。あの時に落としたのが鍵でなくて良かった。バッグの中をごそごそと探すと、奥のほうから懐かしい鍵の束が出てきた。熊のキーホルダーがついた簡易的な鍵。使うのは久しぶりだなと思いながら二階へ上がり家の前まで歩く。
すると、そこには人影があった。
「お、やっと来たな。ちゃんと戻って来れたんだな」
「ひとの家の前で何してんの?」
「待っててやったんだよ。保険証くれたじゃないか。数年ぶりに見たけどタケはあの時のまんまだな」
そう言って笑うケンはあの時よりも大人びていた。自然に流していた黒髪は茶色く染められてワックスで固められている。華奢に見えていた体も、ずいぶん筋肉がついていた。
「なんか一瞬でリア充感、増しすぎじゃない?」
「リア充だからな。それより家入れてくれ」
言われるまま鍵穴に鍵を差し込み扉を開く。開いた瞬間、懐かしい匂いが鼻腔をくすぐった。ああ、我が家の匂いだ。
ダイニングテーブルに二人座り、湯飲みに淹れたほうじ茶をすする。魔王さんの部屋で飲んだ煎茶のほうが高級そうな味がしていた。カレンダーを見ると令和二年の文字が大きく書かれていて、召喚前に書き込んだ予定と同じ書き込みがされている。
「こっち戻って気が付いたんだけどさ、絶対音感スキル使えなくなってるんだ。たぶんタケも状態異常回復使えないと思う。それと、タケの母さんを救おうかと思ったんだけど俺が戻った日には既に事故に遭ってたみたいでどうにもならんかった。すまん」
そう言ってケンは頭を下げる。私も気づいていた。あの能力はあっちの世界の何かを吸収して使っていたみたいで、地球では使えないようだった。
「いいの。お母さんに別れの挨拶をしに戻って来ただけだから、明日にでも病院に行ってみる」
「俺は救えると思ったんだけどな。自分が不甲斐ないよ」
時計のカチカチという音が部屋に響く。この音も久しぶりだ。もしあっちの世界でこの音がしていたらケンは絶対音感スキルで苦しんでいたのかもしれない。そう考えると少し笑えた。
「それで過去を変えられないなら、今できる支援をタケにしたいんだけどさ」
「いいよそんなの。私は正社員だから入院費稼いでるし、あれ? クビになってないよね? それにダメだと思ったら病院で維持装置抜いてやるんだから!」
「それ犯罪じゃん。それで、支援するにあたって確認したいことがある。タケにはその……好きなヤツとかいるのか?」
「いるけど何で?」
「え?!」
私の返答に、ケンが目を剥いて驚く。あの時の若いだけのイケメンが、少し落ち着いたイケメンになってる。これだと周りが放っておかないのではないか。
「何で驚くの? 二十歳のピチピチ女子なんだから好きな人くらいいるでしょう」
「そいつの名前は?!」
「うーんそれが、実は知らないんだよねぇ」
「なっ?! それ騙されてるぞ!!」
怒鳴られても教えてもらってないんだから仕方がないではないか。ケンが何故か怒り出したのでクールダウンするためにお茶のおかわりを湯飲みに注いであげる。そういえばあちらの世界ではソルさんとか側近さんとかが注いでくれてたし至れり尽くせりだったなあ。
「そいつと結婚とか考えてるのか?」
「そうだなぁ、女子としては結婚すると名字が変わるじゃない? だからそれを考えると結婚システムって女子にとって難しい問題だなって思うの。その人の名字知らないけど、もし綾瀬とか綾波とかだったら私の名前が綾香だから、結婚後のニックネームってアヤアヤになるんだよね。もし赤石とか赤井だったら……」
「アカアカだな」
「そうなんだよねぇ。相手の名字って大切だよね」
私の言葉を聞いて腑に落ちない顔をしているケンは根っからの男子なのだろう。結婚して今まで名乗ってきた名字を捨てることなど想像できないのかもしれない。
「じゃあそいつの事なんて呼んでんだ?」
「下の名前はケントっていうらしいんだけど、いつもはケンって呼んでるね」
「…………そいつの名字、もしかしたら神宮寺っていうかもしれんぞ」
「名字までイケメンなの?!」
そういった後、二人で顔を見合わせて笑いあった。ケンは安堵したような顔をしてそっと私の手を握る。青と金の不思議な色をした指輪が、私の薬指にピタリとはまった。
「俺あっちの世界の知識を使って今結構稼いでてさ、タケ……綾香と母さんを引き取れるくらいは余裕があるんだ。でもそのために大義名分がいるんだ」
「大義名分? 難しい言葉使わないで、はっきり言ってよ」
「そうだな……結婚して、一緒に生きよう」
「私まだ好きって言われてないんだけど」
そう言うと、珍しく顔を赤くしたケンは囁くように好きだよ、と言ってくれた。また二人で顔を見合わせて笑いあう。
たった数ヶ月だったけど、私たちは確かに心を通じ合わせた。私はこの先、心の支えにしてきた母を失うかもしれない。ケンも大切な何かを失うかもしれない。この数年で失ってきたのかもしれない。
でも私たちはあの時と同じように手を取り合って、それを糧にして未来に向かって生きていくのだ。
最後まで読んでくださった皆さま、ありがとうございました。
90話をもちまして、完結とさせて頂きます。
これからも細々とですが別作品を投稿していけたらいいなと思っております。
評価やブックマーク等、心より感謝申し上げます。