都会の神様は雑居ビルに御座(おわ)します
25歳の舞矢は、ずっと会っていなかった父が亡くなり、新宿の片隅の古い雑居ビルを相続した。父はこのビルの最上階で一人暮らしをしていたのだ。この際自分も住んでしまおうとやってくると、屋上の温室に謎の青年がいて、ここでカフェをやっているという。その出会いから、舞矢はビル街で起こる様々な怪異に巻き込まれるようになり──。古くからその土地を守る神々も、都会のライフスタイルにアップデート。そんな彼らがダベりに来るビルのオーナーになってしまった舞矢の、巻き込まれ奮闘記。あなたも商業ビルの屋上などで彼らを見かけたこと、ありませんか?
温室は、夜の闇に包まれていた。
外では風が低く唸っているけれど、ぶら下がった電球の光を緑の葉が反射して、暖かな空間は凪いでいる。
急に、ゴオッ、と音がして、強い風がガラスをびりびりと震わせた。
椅子の上で膝を抱えた娘は、小さな身体をさらに縮める。
「こわい。どうして風ってふくの?」
娘の父は微笑む。
「風が花粉を運んでくれないと、稲が実らない。お前の好きな白いご飯が食べられないよ」
「でもここ、田んぼないよ。町のなかだもん」
すると、父は答えた。
「風は、淀みも吹き飛ばしてくれるんだ」
「ヨドミ?」
「動かなくなって、たまっていく、良くないもの。ビルの谷間にもたまりやすいんだよ、色々とね」
「ふーん」
曖昧な返事をしつつも、娘はガラスの天井を見上げた。
風が町を駆け回り、悪いものを追い払うところを想像してみる。
父は続けた。
「それに、風は怖くないよ。ほら」
温室のドアが開いた。
誰かが入ってくる……
※
暮れなずむ空に、高層ビル群の衝突防止灯が赤く光っている。首都高速を走る車の音が、ゴーッ……と遠く潮騒のように響いていた。
『アサギリビル』
ビルの看板と、スマートフォンの画面を見比べ、舞矢はうなずいた。
「ここだ」
新宿駅の南口を出て、二十分ほど歩いた路地である。
舞矢が立っているのは、八階建ての雑居ビルの前だ。築三十年、リノベーションしてからもしばらく経ち、少々古ぼけている。
(私、このビルのオーナーになるのか)
最近亡くなった父、朝霧誠が、舞矢にこのビルを管理してほしいと言い残したのである。
彼女が幼い頃に母と離婚した父は、このビルの最上階を住居として、一人暮らしをしていた。
(アパートの契約がちょうど切れるから、お父さんの部屋に引っ越すことにしちゃったけど……ビルに住むって変な感じ。他の階は事務所とかお店だし)
何となく、周囲を見回す。
一度ビルを見ておこうと、仕事が終わってからやってきたのだが、すでに夜のとば口だ。
段差の陰や排水溝の中で、闇がこごって動きそうな気がする。
(そういえば昨日だか一昨日だか、通り魔が出たって……)
さっきから、人っ子一人通らない。
(怖っ)
舞矢はぶるっと身を震わせ、急いでビルの中に入った。
明かりは点いているのに、足下が暗い。黒い靄が薄く漂い、光を浸食しているかのようだ。
ミシミシいうエレベーターに乗り、最上階で降りる。そこは狭いホールで、普通の家のような扉と、非常階段への鉄扉があった。
「昔、遊びに来たことあるはずなんだけど、全然覚えてないな」
声に出して怖さを紛らせながら、舞矢は鍵を開けた。
中はいかにもマンションの部屋で、ホッとする。最低限のものしかなくて殺風景だが。
「そういえば、屋上があったよね」
舞矢は、非常階段に足を向けた。
狭い屋上に出て、舞矢は「わぁ」と声を上げた。
三方を隣のビルに囲まれた屋上に、ガラス張りの温室があり、ぽわっと光っていたのだ。
「思い出した! これ、お父さんの温室!」
電球が下がっているのがうっすら見え、濃淡さまざまな緑を照らしている。
近づいて、舞矢はギョッとして足を止めた。
ウッ、ウッ……グスッ……
泣き声だ。
ぞわっ、と、舞矢の背中に寒気が走った。
(誰か、いる)
舞矢は、バッグからスマートフォンを取り出した。何かあったら緊急SOSを発信できるよう、構える。
静かに近づき、ゆっくりとドアノブを回し、開けた。
緑の葉が両側から垂れたその奥に、木製のバーカウンターがある。
スツールに腰かけた人影が、カウンターに突っ伏していた。肩が細かく震えている。
(泣いてたのは、この人?)
舞矢は思い切って、声をかけた。
「あの」
はっ、と人影が顔を上げて彼女を見た。
舞矢と同じ年頃の男性だ。髪は伸ばしっぱなしにしているのか、微妙な長さ。細身の身体を、黒のロングパーカーとジーンズに包んでいる。
舞矢はいつでも逃げ出せるように、ドアを閉めないまま聞いた。
「ここで何を?」
目を真っ赤にした男性は、グスッと鼻を鳴らして答えた。
「え、ええと、カフェやってるけど」
「カフェ!?」
よく見ると、カウンターにはドリッパーやガラスポット、コーヒーカップなどが揃っている。
(じゃあこの人は店長? 屋上にお店があるなんて、聞いてない!)
舞矢は混乱しながらも続けた。
「あの、ですね。このビルのオーナーが亡くなって」
「ううっ」
とたんに、男性の目からボロボロッと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「そうなんだよ……マコトが死んじゃっ……僕、どうしよう」
「ど、どうしようって」
父を呼び捨てにするほど親しかったのか、店長らしき男性は身も世もなく悲嘆にくれている。
その様子を見ていると、不審な印象はかなり薄れた。
舞矢は決める。
(今日は引き上げて、不動産屋さんに相談してみよう)
「ええと、また来ます。お邪魔しまし……」
軽く会釈して振り向いたとたん、彼女はまたギョッとした。
黒い煙のようなものが、ドアから入ってきている。
「何これ、火事?」
ぱっ、と外に出て、舞矢は思わず悲鳴を上げた。
屋上の床を、黒い靄が渦巻いている。靄は、両隣のビルとの隙間から上がってきているようだ。
(燃える臭いはしないけど、生臭い……! 毒ガス!?)
階段に駆け寄ったけれど、そこからも靄が上がって来て降りられない。
「ちょ、あの、店長さん!?」
あわてて振り向く。温室にも靄が侵入しているのに、男性は気づいているのかいないのか、スツールに腰かけたまま顔を覆っていた。
「ううっ……マコト……」
舞矢は駆け寄り、必死で彼のパーカーの袖を引っ張った。
「周り見て! 父のことは置いといて今は逃げないと!」
彼は引っ張られるまま、スツールを降りた。舞矢は温室を出ながらつぶやく。
「どうしよう、隣のビルに何とかして移るとか」
「……今」
ふと、男性が口を開いた。
「父、って言った?」
「は?」
彼は、目を見開いている。
「君、もしかして……マヤ?」
「舞矢ですけど、今それどころじゃないでしょ!?」
つい叱りつけるように言ったにも関わらず。
男性は、ぱあっ、と表情を明るくした。
「マコトがちゃんと伝えてくれたんだね!」
舞矢が何か言うよりも早く、彼はガッツポーズをした。
「やった!」
その瞬間、彼の背中にブワッと、大きな翼が広がった。
「は!?」
驚く舞矢に、男性はいきなり両腕を伸ばした。そして、細い外見からは思いもよらない力強さで舞矢を抱き上げ──
──床を蹴った。
「きゃあああ!」
二人は、群青の空に飛び出した。
彼はいったん空中で体勢を立て直したかと思うと、アサギリビルの前の通りにダイブするようにして急降下する。
「……!」
もはや声も出ない舞矢は、必死で男性の首にしがみついた。
「散れっ!」
彼が叫ぶと、ぶわっ、と風が起こった。通りに渦巻く靄が吹き散らされ、たちまち視界がクリアになっていく。
彼はそのまま路地を縫うようにして、地面すれすれを駆け巡った。
オアアアア……という小さな悲鳴が、耳をかすめ、消えていく。
やがて、あたりの靄は散り散りになり、ごく普通のビル街の光景が広がった。
ふんわりと、店長はアサギリビルの屋上に降り立った。
下ろされた舞矢は、床にへたり込む。
「……な……なん……」
「マヤ、ごめん」
店長は頭をかいた。
「僕、マコトが死んじゃって、落ち込んでて……町を守る気になれなかったんだ」
「ま、守る?」
「マコトが説明してたでしょ、風は淀みを吹き飛ばすって」
舞矢は思い出す。
(ビルの谷間には悪いものがたまりやすいって、お父さん、言ってた……)
いつの間にか、店長の背中に生えていた鷹のような翼は消えていた。彼は片膝をつき、舞矢の顔をのぞき込んで微笑む。
「でも、マヤがマコトの後を継いでくれたし。僕、ちょっとサボっちゃったけど、また頑張るね。ここに住む神として」
「何その神って厨二病……え、待って待って、ここに住むって何!?」
「覚えてないの? 僕、マヤが小さい頃、君と会ったことだってあるのに」
不満そうに言いつつ、彼は振り向いた。
「あれが僕の家」
二人がいるのは、温室を通り抜けた反対側だった。やはりいくつか大きなプランターが置かれ、小さな庭のようになっている。
その庭の真ん中に、神社のミニチュアのような建物が、ちょん、と鎮座していた。舞矢の腰くらいの高さしかない。
「こ、これが、あなたの家!?」
「マコトが建てたんだよ」
店長はニコニコと言う。
「この土地に元々あった社を、アサギリビルを建てた時に屋上に移したんだ。だから、地主神の僕もそのままここに住んでる」
「ジヌシガミ?」
「土地を守護してる神ってこと。あ、そうだ」
店長は飛び上がるように立ち上がった。
「コーヒー、どう? この辺のブロック担当の神たちには、美味しいって評判なんだよ!」
彼に手を引かれ、ふらりと立ち上がった舞矢の頭の中が、ようやく整理される。
「え、待って。私が住むビルに、あなたも住んでるってこと!?」
「あ、夏彦って呼んで」
「ナツ……ええと、一つ屋根の下でも、私たち関係ないですからね!?」
「あーうん、とりあえずコーヒー飲もう! ……それにしても」
店長──夏彦は、ひとり言のように言う。
「約束を覚えてたから、継いでくれたのかと思ったのに……ま、いっか」