悠久の恋華結び~呪われた不死者は転生人魚を守りたい~
どこにでもいる男子高校生、辻永 汐月にはある秘密がある。
それは彼が人魚の肉を食べた、不老の不死者であるということ。
歳を取らない彼は、名を変え、住む土地を変え、流れるように生きていた。
そんな中、新たに入学した高校で出会ったのは、栗花落 穂乃花。
彼女こそ、その身を彼に捧げた人魚の生まれ変わりだった。
彼女との出会いが、彼のモノクロに染まった時を、百年ぶりに色づけ揺り動かす。
それと同時に、呪いとも呼べるジンクスが二人に牙を剥く。
十回愛する人を失った男は彼女を守るために離れることを望み、記憶を失った元人魚は彼を独りにしないために傍にいることを望む。
これはそんな二人が、失われた時を取り戻し、複雑に絡んだ運命の糸をあるべき姿へと結び直す、最後の恋物語。
「八百比丘尼の伝説と輪廻転生……?」
戸惑い気味にそう口にしたのは、赤みがかった黒髪の女子。夕日に染まり、一層赤みが増したポニーテールを、海風がふわりと撫でていく。真っ直ぐ見上げてくる、丸くて大きな胡桃色の瞳が、ずいぶん昔の記憶と重なる。
うっかり懐かしさに浸っていたオレに対し、彼女は胡乱げな様子で言った。
「私は汐月のことを知りたくて聞いたのに、もしかして煙に巻こうとしてる?」
「いや?」
「じゃあ、わかるようにちゃんと説明して」
目尻を吊り上げて説明を乞う彼女に、オレは静かに告げた。
「オレがその八百比丘尼伝説の生き証人で、穂乃花は食われた人魚の転生者。……そう言ったら、お前は信じる?」
と。
彼女は唖然とした様子で絶句する。
こうなるだろうと思ったから、近付かないで置こうと思っていたのに、どうしてこうなったのかと自問自答する。
そうして、ひぐらしの鳴き声とさざ波を聞きつつ、オレは彼女との記憶へと旅立った。
***
春風が桜の花びらを散らす中、真新しいブレザーの制服に身を包んで、見慣れぬ長い坂道を登る。繰り返されるスタートは、十を超えた辺りで数えるのを止めた。
オレが登る道を、同じ格好の男子や似た格好の女子が同様に歩いて行く。新しい生活への期待と希望。それらに目を輝かせている彼らを見ても、今のオレはもう何も感じない。彼らは長い長い道ですれ違う、ただの通行人に過ぎないのだから。
そんなことを考えつつ、校門をくぐり人混みに紛れ込む。入り口の前にでかでかと張り出されたクラス表で、今の名前を探し出し、さっさと自分のクラスに向かう。
一年三組。そこがオレに割り当てられた教室だ。引き戸に貼り付けられた座席表を確認して、何の気なしに教室へと足を一歩踏み入れた、そのときだった。
ふわりと懐かしい潮の香りがして、無意識に身体が強張る。
坂道を登る途中で海は見た。見えたと言っても、商店街や住宅街の建物の隙間から、遙か彼方に水平線が見える程度には離れた場所だ。窓も閉め切っている中、こんな鮮明に感じるはずがない。
ただもう一つだけ。この現象が起こる可能性を、オレはすでに知っていた。
先客がいる室内を見回すまでもなく、赤みがかった黒髪に吸い寄せられ、目が釘付けになる。
「奏……」
黒髪なんてこの国の人間の大半がそうだし、まだ『彼女』だと決まった訳じゃない。そう言い聞かせながら、踏み込んだ足を戻す。彼女の座席位置を見たあと、貼られたの用紙を再度確認する。
決して近付かない。まるでオレの決意を試すかのような配置に、錆び付いた感情が百年ぶりに揺れ動く。
この感情は、果たしてなんだっただろう。そんなことを考えつつ、大きな深呼吸と共に腹を括り、オレは室内へと足を踏み入れた。
今日の予定を考えると、決して早くもないが、遅くもない時間。廊下の人だかりに比べたら、人影がまばらな室内の障害物を避けて進む。
あと十歩。あと五歩。……0歩。チラリと横を見るも、俯き気味の顔はセミロングの髪に隠れて見えない。
彼女との距離がほぼ0になった場所から、さらに二歩進む。そうして辿り着いたのは、彼女の真ん前の席だ。
新しい三年間のために新調した鞄を机に置いて座れば、背中に視線が突き刺さる。気のせいかもしれない。いや、むしろ気のせいであってほしいと、信じてもいない神につい祈ろうとするほどに、オレは久方ぶりに緊張というものを体感していた。
無言の沈黙の中、自分の鼓動がやけに煩いと感じ始めたそのとき、ポンポンと肩を叩かれた。その感触に思わず両肩が跳ね上がる。そろりと振り返れば、そこには懐かしい顔があった。
最初を除き、何度となく見送り続けてきた最愛の人と瓜二つの顔。今度こそ諦めると決めてもなお、夢にみた奏とほとんど違わぬ顔がそこにあった。
「えっと、ごめんね。驚かせるつもりじゃなかったんだけど……」
「いや、別に」
凍てつかせた心が、懐かしい響きの声に揺れる。それを悟られたくなくて、再び前を向こうとしたが、彼女から待ったをかけられた。
「ね。君、名前なんて言うの?」
「……座席表に書いてあるとおりだけど」
「下の名前、なんて読むのかわからなかったんだよね。だから、教えて?」
両手を合わせて朗らかに笑う彼女に、オレは一つ息をついて言った。
「辻永 汐月だ」
「私は栗花落 穂乃花」
「……知ってる」
『彼女』かもしれないと気付いて、即座に座席表の名前を確認したし、他に読みようのない名前だ。しかし、彼女――栗花落にはそれが意外だったのか、目を瞬かせて言った。
「辻永くん、私の苗字読めたんだ? なかなか一発で読める人ってそういないのに……」
「……知り合いに同じ苗字のヤツがいたから、たまたまだ」
「そっかぁ」
納得したように頷くと、彼女は何やら考えに耽った。さすがにもういいだろうと、会話が終わったと判断し、前を向こうとしたときだった。
「辻永くんって呼ぶの長いから、汐月くんって呼んでもいい?」
「は?」
思いがけない言葉に、思わず彼女を振り返れば、黒真珠のような瞳とかち合う。
ただの空似かもしれない。そう、思いたかった。でも彼女の表情を見て、オレは栗花落が『彼女』だと確信せざるを得なかった。
物怖じしない真っ直ぐな視線と、疑うことを知らない目。それは、何度生まれ変わっても変わることがなく、今世でも変わっていないらしい『彼女』らしさだった。
それに何度期待をしただろう。何度祈っただろう。……何度、絶望しただろう。
オレと『彼女』の因縁なんて、栗花落自身には関係ない。話したところでまた繰り返すだけだ。だからこそ、出会ったとしても二度と近付かないようにしようと、そう心に決めた。彼女を守るためならば、例え彼女を傷つけたとしても、心を鬼にする。彼女の亡骸を前に誓ったそれは、今も色褪せることはない。
「今日出会ったばかりの人間に、名前で呼ばれる筋合いはない」
「でもこれから一年間同じクラスだし。こうして席順も前後なら、話す機会も多いでしょ?」
「多いからなんだって言うんだ」
「せっかく知り合えたんだし、仲良くしようよ」
そう言って栗花落は、日に焼けた右手をオレに向けて差し出した。その手と邪気のない笑みを交互に見る。
彼女の手を取るということは、オレがオレ自身に課した誓いを破ることを意味する。
――そんなデタラメ話で煙に巻くほど私のことが嫌いなら、最初から突き放してくれればよかったのに。
栗花落と同じであって、栗花落とは違う声が脳裏を過る。同時にそのとき感じた痛みが、色褪せながらも苦みを帯びて蘇る。
それらのおかげで揺れていた心が、元の静けさを取り戻す。
「オレにはお前と仲良くするだけの理由はない」
思った以上に冷たい口調と言葉がこぼれ落ちる。それに対し、胸の奥がチクリと痛んだ気がした。
「もういいだろ。オレのことは放っておいてくれ」
「ヤだ」
間髪入れずに返された答えに、思わず頭を抱えたくなる。今までの『彼女』ならこれで引き下がったはずなのに、栗花落は止まらない。実はオレの思い違いなんじゃないか、なんて考えが一瞬過る。
「高校生にもなって子供か」
「子供だよ」
「……皮肉を肯定するな」
呆れ混じりのため息をつけば、彼女はにっこり笑みを浮かべて言った。
「汐月に理由がなくても、私にはあるの」
「……敬称どこいった?」
「まぁまぁ、細かいことは気にしない気にしない」
「お前が気にしてくれ」
思わずそんなツッコミを入れれば、彼女は笑みを消して、真顔で言った。
「なんでかわからないけど、今の汐月を見てると胸が締め付けられるように痛むの」
「……病院に行ったらどうだ?」
「物理的な話じゃなくて、気持ちの話」
茶化すなと言わんばかりの口調で、ピシャリとはねのけられる。その勢いに思わず口を噤めば、彼女は続けて言った。
「どうしてそう思うのかはわからない。けど、放っておきたくない。だから、仲良くなりたいの」
「オレが嫌がってるのに?」
「汐月、本気で嫌なら、無視するタイプでしょ?」
彼女の言葉に思わず唸る。事実、どうでもよければオレは気にも留めないし、無視する。それができないのは、栗花落だからだ。それを見透かしたかのように彼女は言った。
「というわけで。これから覚悟してね、汐月」
「……その様子じゃ、どうせ嫌だと言っても無駄なんだろ」
そう言えば、彼女はにっこり微笑みを浮かべた。そんな彼女に対し、大きくため息をつけば、彼女は下ろしていた右手をもう一度オレに差し出して言った。
「改めて、これからよろしくね」
取ってはダメだとわかっていても、二度も差し出されたその手を拒むことはできなかった。せめてもの抵抗で、軽く右手にタッチをするに留める。だが、彼女はたったそれだけでも満足げに微笑んだ。オレがかつて愛した笑顔を浮かべて……。
およそ百年ぶりに果たされた、累計十一回目となる彼女との出会いは、最愛との再会。それと同時に、最後の恋物語の幕開けでもあることを、このときのオレは知る由もなかった。