妹より深い関係になれたなら
妹より深い関係になれたなら、離れなくても大丈夫だよね?
――春は別れの季節と言うけれど、だからってこんなの聞いてない――
三月、福岡県大野城市。
小高い丘の上に広がる大きな霊園、その片隅で。
(買い換え時、かなぁ……)
充電の切れたスマートフォンの画面を眺めながら、棚町詩織はため息をついた。
真っ黒な液晶に映るのは辛気くさい自分の顔、デフォルトで気怠そうな目つきと密かにコンプレックスな天然パーマの青い髪。
嫌な画だ。
気が滅入る。嗚呼、気が滅入る。見ているだけで縁起が悪い。
詩織は顔にまとわりつくもやを払うように首を振ると、ガラクタに成り果てたスマートフォンを乱雑にポケットに突っ込んでから前を向いた。
その視線の先には、詩織とまったく同じ顔をした少女。コロコロと変わる表情とショートヘアの赤髪が明るい印象を与えてくれる──はずだった彼女の名前は棚町日向。
詩織の双子の姉だ。
日向は先程からずっと、何かに魂でも奪われてしまったかのような虚ろな瞳で『棚町家』と書かれた灰色の墓石を見つめている。
かれこれ、一時間は経っているだろうか。
「おねえちゃん」
「……んー?」
呼びかけても、少し間を置いて帰ってくるのは気の抜けきった声。
おざなりな対応に少し口を尖らせてしまうが。まあそれはいい。
「そろそろ帰ろーよー」
「……もうちょっとー」
「最後のバス来ちゃうよ?」
「……えっ⁉ もうそんな時間なん⁉」
「こちら、現在5時40分となっておりまーす」
そう、見上げれば空が茜色に染まりつつある頃合い、つまりは子供は家に帰る時間だ。
日向が驚くのも無理はないだろう、なにせ霊園に到着したのは二時過ぎ。
お墓を丁寧に掃除し、牡丹の花と缶コーヒーを二本お供えし、お手々を合わせてお線香をあげて、それじゃあ今日は帰ろうかと支度を始めたのが三時過ぎ。
そこから日向が「もうちょっと」を繰り返しながら墓前より動こうとせずに一時間、ついには返事すらしなくなって一時間強。
暇を潰そうにもスマートフォンが使えなくては何もすることがなく、さすがにここらが詩織の寛容さの限界であった。
「そ、そっかぁ……ごめんなぁ、詩織ぃ」
申し訳なさそうに日向は言う。
やはりと言うべきか、自覚はまるでなかったようで。
放心とか、呆然とか、そんな感じ。
「別にいいけどさ、このぐらい。でも、歩いて帰るのは勘弁ね」
「そうやなぁ、それはきっつなぁ……」
肩をすくめる詩織に日向は力のない笑みを返すと、名残を惜しむように墓石を一瞥してからバスの待合所へと歩き出した。
危なっかしい、ふらふらとした足取り。
いまにも転けてしまいそうなそれはまるで、夢遊病者のようだった。
(おねえちゃん……)
最近の日向は、何もかも覚束ない。
詩織にはその姿が痛々しく、その気持ちも痛いほど理解できた。
――だって、棚町家は満ち足りた家族だったから――
お茶目で優しかった母と、厳しくも頼りがいのあった父。
姉はほんのりと馬鹿だけど底抜けに明るく、妹はしっかり者で頭が良い。
緩やかな幸福が淀みなく続く、ごくごく普通の仲良し家族。
特別なことは何もなかったけれど、だからこそ理想で。
これ以上望むべくもない人生の完成形は、ご近所でも評判だった。
それが、名前も知らない赤の他人の気まぐれと悪意によって一生涯失われることになるなんて、そんなこと、たった二週間前まで、思うはずもなくて。
いまだって、浅い夢の中を揺れているようで、現実味がない。
(でも、ごめんね。わたし、おねえちゃんほどパパとママがいなくなったこと、悲しめてないんだ)
けれど、どこかで、姉の喪失感を十全に共有してあげられない自分がいることに、詩織は気づいていた。
もちろん詩織とて悲しんでいる、絶望していると言っても過言ではない。
気を抜けば自然と涙が出るし、両親の顔を思い出すだけで夜も眠れない。
だけど、父と母のいた過去を想う日向とは逆に、詩織は家族のいない未来をこそ想う。
言ってしまえば『これからどうなるのだろう』という先行きへの不安の方に、心が支配されてしまっているのだ。
理由は単純、原因も明白。
それなのに解決策だけがなくて、繰り返す自問自答に頭が濁る。
――嗚呼、こんなことになるなら、いっそ――
「しおりー、バスきたでー!」
「っ……いま行くよ、おねえちゃん」
停滞する思考を一旦放棄して、少し先に待つ姉のもとへと走る。
ガラガラのバスに乗って、家に帰るのだ。
来月には二人揃って高校生、そのために準備することは沢山ある。
「次はお盆かなぁ……」
最後部の座席に座って一息ついたところで、日向はぽつりと呟いた。
「交通費、稼がないとね」
「大阪は遠いけんなぁ、大変よ」
「……東京の方が遠いよ」
ぼやくような返答に、それもそうやなぁと日向はへにゃりと笑う。
優しいはずのその表情が、ひどく物悲しい。
「なんにせよ、来月には詩織と離れて暮らしとるなんて、想像つかんなぁ」
「……そう、だね」
蚊の泣くような声で詩織が言うと、それっきり会話は止まった。
中学卒業を待って、二人は大阪と東京の親戚にそれぞれ引き取られることが決まっている。
両親の葬儀のあと、集まった親族のあまり穏やかでない話し合いの末の結論だ。
叶うなら、ああいうのは二度と聞きたくないと、そう思う。
(いやだなぁ……)
さびしいではなく、いやだ。それが詩織の率直な気持ち。
知らない土地で、新しい家族と、姉のいない生活。
世話になる叔父は決して悪い人ではない。真っ当な倫理観と、大人としての責任感を持った立派な人だ。親族会議が醜悪な押し付け合いに発展しようとしたとき、真っ先に手を上げてくれたことを知っている。
だけど、叔父の家は経済状況が芳しくないことも知っている。
父とは仲が悪く、会うたびに激しく口論していたことも。
(迷惑、だよね……)
叔父の家にとって詩織は邪魔者でしかない。叔父は正しい人なのでそう思うことはないかもしれないが、事実としてそう。
貧乏くじを引かされた、そんな彼を見て叔母は、従兄弟は、どう思うのか。
自分たちのリソースを食い潰す詩織を見て、まず良い気分はしないに違いない。
人見知りである詩織には、それだけで強い忌避感があった。
だがそれ以上に、なによりも、最愛の姉と一緒にいられないのがつらい。それだけはもう、許容できない。
(おねえちゃんはどう思ってるのかな……)
窓の外の景色を眺める日向の横顔をそっとうかがう。
いつもの快活さは鳴りを潜め、寂寥を帯びた瞳が心苦しい。
前まではお互い何を考えているか、言わなくてもわかり合えていたのに、あの日からそれもできなくなっていた。
(わたしがワガママ言ったら、怒るかな……)
棚町姉妹は双子ではあるが、姉と妹の立場が強固に確立されている。
何事にも動じない姉が常に半歩先を往き、妹の手を取って引っ張るのが二人の形。
臆病な自分に手を差し伸べる姉の朗らかな声が、笑顔が、一番好きだった。
なのに、このまま何も言わなければ姉は、日向は、遠くへ行ってしまう。
自分がここで別れを拒絶すれば日向はたぶん、仕方ないなと呆れながらもどこかに連れ出してくれるだろう。怒りはすると思うけど、きっとそう。
だけどそれは、日向の未来を制限することで。
不出来な妹に比べ、姉はどこへでも踏み出して行ける人間だ。
これまでは危なっかしい日向のサポート役なんて言い張っていたけれど、いざ現実を突きつけられたら、わかってしまった。
妹には姉が必要でも、姉には妹が不可欠でない。
そもそも連れ出してもらったところでどうするのか。
中学を卒業したばかりの姉妹が独立して生活することを許すほど社会は優しくはないし、厳しくもない。
精々、方々に迷惑を掛けて連れ戻されるのが関の山だ。
だから、この想いは秘めたままにするのが一番良い。
それだって高校卒業までの我慢だ。そうすれば同じ大学に行けるかもしれない、また一緒に暮らせるかもしれない。
隣り合わせの布団の中で明日の予定を話し合うのだ。
どこそこに行って、なになにを食べて、今日は楽しかったと笑い合いながらまた同じことを繰り返す。
そんな未来があるかもしれない。
(……でも、ないかもしれない)
姉に想い焦がれながら、孤独に沈み、忘れられる恐怖に心を掻き毟る日々。
それを、三年間。
(たった三年の辛抱だって、お姉ちゃんは笑うかもしれないけどさ……)
それに耐えられるほど、自分は頑丈なのだろうか。
わからない。
それが、中学生らしい潔癖が過ぎる思考だという自覚はあるけれど、姉のいない世界を想像するとそこはくすんでいた、ぼやけていた、暗かった。
棚町家という名の無菌室で育てられた自分には、足を踏み入れることすら躊躇うほどに、恐ろしかった。
……それなら、もう。
──あのとき、私も一緒に死んでいればよかったのに──
(なんて、ね……)
日向には絶対に言えない言葉を抱えて、詩織は目を閉じた。
何事もネガティブに考えすぎるのは自分の悪い癖。
きっと人生はそう捨てたものではない。と、思うことにする。
そして運命へのささやかな抵抗として、コテッと体を姉に預けた。
「なんや、詩織は甘えん坊さんやな」
「だってまだ中学生だもーん」
「まったく、しゃーないなぁ……」
残された時間で、少しでも長く姉を感じていたくて。
無機質なゆりかごの中で二人は身を寄せ合い、やがて穏やかな眠りに落ちた。





