君がヒロインで、僕が助演者(ヒーロー)
無個性で真面目な青年、深山 灰は一年間付き合った彼女に振られてしまう。原因は大学進学による別離。
唐突な別れに苦しみ、これが初めての失恋だった深山はブルーな気分を晴らす為に一人旅に出る。
訪れた街で独り海を眺めて黄昏ていたところ、同じく恋人に振られて旅行に来たという女性、佐山ミリと出会う。
大学二年に進級し、葉桜が爽やかな風に踊る五月の頭。俺、深山 灰は初めての春を季節と共に終えた。
『別れよう。別に灰くんは悪くないの、強いて言うなら重かった……かな』
よくある別れ文句。こんなもの、気にする必要なんてない。どうせ俺に飽きただけだろう。ただ、“重い”と付け足した真意が読み取れない。まさか俺は本当に重い愛情表現をしてしまう人間なのだろうか。検証しようもない命題に頭を抱えながら、興味の無い動画の流れるスマートフォンの画面を死んだ目で眺める。
自動再生で映し出されたのは神戸の街を紹介する動画だった。最近若者にも人気なクリエイターが寝たら即帰宅という縛りを課して街ブラするという内容だった。サークル仲間にもおすすめされてたけど、有名なだけあって面白い。こんなどん底テンションでも笑えてしまった。
しかしまあ、神戸か。近場だけれど一度も行った事が無かったな。この際、友達と一緒にこのクリエイターを真似して訪れてみようか。……いや、止めておこう。行くなら一人が良い、友達と今行っても気を使わせるだけだ。
バイト代の使い道も減った事だし、一度旅行するくらい容易いだろう。本来彼女との交際に使われるはずだったお金達を供養してあげようじゃないか。
思い立ったが吉日。俺はその日のうちに計画を立て始めた。彼女の事を考えずに済む分、何もしないよりも気が楽だった。
二〇一九年五月三日 兵庫県神戸市
苦しいほどの快晴だった。加えて気温も高い。まだ五月だというのにまるで初夏だ。春用のニットでも少し暑いくらいだった。
ホテルのチェックインは済ませてあるので計画通りに観光地を巡っていく。昼食は近場のカフェでお手軽に済ませた。
こうして一人で旅行をすると、スムーズに計画が進みすぎて驚く。ストレスフリーで素晴らしい。これが一人旅の魅力なのだろうか。
暫く歩いて疲れたので、腰を下ろして脚を休める事にした。海沿いにデッキが並ぶ公園あるらしいのでそこに向かう事にした。スタバでシトラスティーを買うと、デッキに向かった。前後左右全てにカップルがいる。ゴールデンウィークだから覚悟はしていたものの、まさかここまでとは思わなかった。圧倒的なアウェー、観客席は全て相手国で独占されているといっても過言ではない。
だが、景色が美しいというのには変わり無かった。居心地が悪いと感じたのはほんの数分で、波の音と心地よい海風を浴びてすっかりとリラックスしてしまった。腰を持ち上げるのでさえ億劫だ。
風が強まってきたので眼を閉じてより深くリラックスしていると、顔に異物がぶつかってきた。ゴミでも飛んできたのかと思い撮んでみるとオシャレな花柄のハンカチだった。持ち主が近くにいないか辺りを見渡すと、右からこちらに向かってくる女性がいた。
「ごめんなさい。それ、私のです」
澄んだ声だった。ハキハキとしていて自然と耳に入ってくる。声が良い上にこの人はかなりの美人だった。透き通ったブラウンの瞳にロングボブの艶やかな髪を靡かせていた。クラスに居れば隣のクラスでもきっと噂になるだろう。
そんな事を考えていたら、反応が少し遅れてしまった。俺は慌ててゴミを持つように撮んでいたハンカチを軽く畳んで彼女に渡した。
「大丈夫です。むしろ海に落ちなくて良かったです」
彼女はその可能性もあったのか、と言わんばかりの顔を浮かべると、一礼して去っていった。
ふと思い出した様に時間を確認してみると、俺は既にここで2時間は座っていたらしい。当然、俺の立てた計画は頓挫した。ここから計画を組み直すのは面倒極まりないので、少し早いがホテルに戻ることにした。こうしたイレギュラーに柔軟なのも一人旅のいいところだろう。
ホテルに戻って鍵を受け取ると、俺は屋上の展望デッキに向かった。どうやら神戸の街が一望できるらしく、特に夜景は絶景とのことだ。その分このホテルは少し値が張ったが、この際なので奮発した。胸を踊らせて屋上に出ると、そこは小さな庭のようになっていた。外に向かってベンチが置かれていたので、一番景色の良さそうな所で腰を下ろした。
……違和感。何かを踏んでしまったようで反射的に腰を浮かして見てみるとそこには見覚えのあるハンカチが落ちていた。
「どんな偶然だよ……」
ハンカチを丁寧に畳んで持ち、仕方なくロビーへ向かう為にエレベーターを呼ぶ。面倒だが、放っておく訳にもいかない。
数十秒ほど待ってエレベーターが着くと、俺は躊躇いなく乗り込む。
「きゃっ」
甲高い悲鳴と胸への鈍い衝撃、誰かとぶつかってしまったのは間違いない。だがどうしてだろう、俺は不格好に尻もちを着いていた。とっさに地面に着いた両掌がすこしひりつく。
顔も見上げる間もなく、女性が喋りだした。
「あなたは、ハンカチ拾ってくれた……。じゃなくて、ごめんなさい! お怪我はありませんか?」
大丈夫ですよ、と言おうと手を見てみると少し擦りむいて血が出ていた。ハンカチに血が着いていないといいのだが。彼女も俺の怪我が見えたようで、血の気が引いたような顔をしていた。
「対した怪我じゃないので大丈夫ですよ。それと、これ、あなたので合ってますか?」
「はい、私のです。二度もごめんなさい。それに怪我もさせてしまって……。何かお詫びさせてください」
「いやいや、大丈夫ですよ。せっかくの旅行なんですから楽しい思い出だけにしましょう」
「そんな……」
「それに、そんなんじゃ彼氏さんとの良い時間も台無しでしょう」
急に彼女は俯いてしまった。まずい、確実に地雷を踏んでしまった。あの公園でこんな美人がいるもんだからてっきりカップルで来たのかと思ったが、無神経過ぎたな。
「すみませ」「お詫び、させてくださいね」
なんだが、断るに断れない雰囲気になってしまった。
特に話題もなく沈黙の空気で満たされた。ここから話を振れるほど俺は口が上手くない。こういった時はどうするのが正解なのだろうか。
女性も話出すような様子ではなく、肩に掛けた小さなポーチの中をがさごそと漁っていた。
「お名前聞いてませんでしたね」
顔も上げずに彼女は唐突にそう聞いてきた。
「そ、そういえばそうでしたね。俺は深山 灰って言います」
彼女は手を止めて、俺と目を合わせる。まじまじと見ると思う、やはりこの人は美人だ。色気では無い純粋な美だ。
「佐山ミリです。深山さん、本当に色々とご迷惑をおかけしました」
「気にしてないんでほんと大丈夫ですよ」
「ですので、これはほんのお詫びです」
佐山さんはそう言うと俺の怪我した方の手をとった。細く健康的な指だ。優しく触れる彼女の手は少し冷えていた。けれどどこか、温かみを感じた。
なになに急に。俺の手をどうするつもりなんだ……。
佐山さんがポーチから何かを取り出し、俺の手のひらに貼り付けた。
「可愛いでしょ」
向日葵の模様がプリントされた可愛らしい絆創膏が俺の手に貼られていた。喋り方から勝手にお堅い性格をしているのかと思ったけど、案外普通の女の子なのかもしれない。
「はい、とっても」
「ほんとに思ってます?」
笑い混じりに佐山さんはそう言う。笑った時にできる小さなえくぼが素敵だった。
「思ってますよ。僕は産まれてこのかたお世辞を言った事がありません」
「ほんとに?」
「ほんとのほんとです」
「まだにわかに信じられませんね」
「そんなに嘘つきそうですか? 俺は」
「はい」
即答だった。なんだろう、美人に言われると余計に傷ついてる気がする。
「どうしたら信じてくれるんですか?」
「そうですね。……そうだ! こうしましょう」
佐山ミリは腰に手を当てる。すると自信満々に胸を張ってみせた。そしてこう続けた。
「明日、私と一緒に街をまわりましょう。その際にあなたがどれほど正直ものか確かめます。私もどこかでお礼ができますし一石二鳥です」
どうだと言わんばかりのドヤ顔をしているが、全然意味がわからない。お礼がしたいってのはまだ分かる。だが、俺が正直者かどうかなんてどうでもいい事だろう。それに、折角の旅行を出会ったばかりの人と潰してしてしまって佐山さんは良いのだろうか。
「ちょっと無茶が過ぎませんか。いくらなんでも丸一日は……」
「そうね。無茶を言っていると思います。ですが、今日一日一人で観光してみて気付いたんです。やっぱり旅は人と一緒にするべきだって。美しい景色も、美味しいご飯も共に共有出来ない。それがどれだけ寂しい事か」
佐山さんはきっと、俺が正直者かどうかなんて興味は無い。彼女は、自分の旅をより良いものにしたい、ただそれだけなのだろう。俺としては、こんな美人と旅行できるなんて願ったり叶ったりだけれど、これだけは確認しておきたい。
「佐山さんは、本当に良いんですか? 俺なんかで」
佐山さんは何も言わなかった。「明日の朝10時にロビーで集合しましょう」とだけ言うとエレベーターで降りていった。
俺は、呆気に取られたままただただ天を仰いでいた。夕焼けに染まった空が、いつもよりも赤い気がした。
俺は今日、二度もハンカチを拾った。
ハンカチは別れの象徴とされることがある。それは、ハンカチが涙を拭くために使われるイメージがあるからだそうだ。彼女──佐山ミリ──は、ハンカチで何を拭いていたのだろうか。





