ニムロド
インドから出稼ぎでやってきたラジェッシュは1100メートルを超える超高層ビルを作っている。ともにインドから出稼ぎでやってきているサンジープも同じ建築作業員で、飯を食うほど仲が良い。
一方、近代建築の歴史に名を遺したザハ・ハディドの弟子、ルネス・モリタもまた彼らと同じ時代に生きる人間である。
クレーンのコックピットは広い視界が確保され、足元に下界が広がる。もうクレーンの高さは1キロメートルになるだろうか。
ドバイを象徴する数多くの高層建築ですらジオラマのように小さく見えている。
「1時間後に砂嵐到達。作業員はただちに作業を中断。降りてこい」
オペレーターの疲れ切った声が無線機から聞こえてきた。
座りながら背筋を伸ばす。
足元に置かれたゴミを袋に詰め、俺はコックピットをあとにする。ひどい湿気で不快感を覚えるが、それでも俺はコックピットの冷房よりプレハブ小屋の安い冷房を求めてハシゴに足をかける。
『20世紀最大の建築家として有名なル・コルビュジエのコンクリート建築を原点に、20世紀後半から21世紀の建築は多様化、発展を遂げます。その行く先の一つに脱構造主義があり、バグダッド生まれのザハ・ハディドがいました』
建物の外側を通るエレベーターに乗るとあとは一瞬だ。
俺は目を開けて外の景色を見る。ジオラマに見える都市が解像度を上げ、ディティールが細かくなっていく。
ドバイの冬の気温は20℃程度と暖かいが北からやってくる季節風には悩まされる。とはいえ砂嵐がやってこなくても開けっ放しの窓はなく、風の力は故郷インドに度々やってくる大型サイクロンなどとは違い都市を破壊しない。
「明日のボイコット、参加するよな?」
プレハブ小屋に着くと一人の作業員が語りかけてきた。
「するよ、するさ。当然じゃあないか」
俺は思ってもいないことを口にした。
クビになると出稼ぎの意味がなくなる。
『ザハ・ハディドが最初に実現させた建築物は1994年に完成したヴィトラ社工場消防署でした。しかし彼女の出世作は1982年の香港ザ・ピークです。彼女のアヴァンギャルド芸術は実現不可能とされ、以後10年以上の設計はすべてアンビルドとされてきました。これがアンビルドの女王という不名誉な2つ名の由来になります』
「ボイコットか、僕も参加しよう。それよりラジェッシュ君、今夜は一緒にスークあたりで食べないかい?」
裸の俺に抱きつく暑苦しい男は、同じインド出身のサンジープだった。
彼は俺が困るとすぐにやってきてくれる。
「おお、いいね。俺たち二人で食べに行こう」
狭いプレハブ小屋で待機をしている作業員たちの隙間を縫うようにして、俺たち二人は職場をあとにする。
スークは市場のある地区名で観光客がよくやってくる。そのため美味いレストランもある。
スークへ向かう道中、うしろを振り返ると俺たちの作る建築物が見えた。
完成すると世界最長となる1100メートルの巨大な超高層ビル。
1000メートルを超えるジッタ・タワーがサウジアラビアの財政危機と感染症危機を乗り越え、2022年に完成したことで、ハージュ・カリファは世界一の座を譲ることになった。
だが金が湯水のごとく湧くドバイに負けという発想はなかった。そこで建設されたのがこの超高層ビルだ。名前はまだない。
この超高層ビルは高層になるほど細くなり、先には尖塔が立つ。しかし土台は太く、3棟の高層ビルが繋がりあって土台を形成している。その土台は互いに湾曲し、側面に曲線を描きながら有機的に見えるよう繋がりあっている。
『建築史においてアンビルドの女王の名は別の意味を帯びています。ザハ・ハディドが最後に設計したとされる日本の新国立競技場もまた出世作同様、アンビルドとなったためです。今度の障害は資本主義でした。中国の銀河SOHOなど巨大建築を完成させてきましたが、汚名返上には至ってません。それは弟子であるルネス・モリタが引き継ぎます』
「スークでは何を食べる?」
俺たちが作る超高層ビルが他の建物から見えなくなった頃だった。
あつくるしい男サンジープは、たくわえたひげを指で触れながら微笑みかけた。
「肉でいこう。インド風でもなんでもいい」
「ラジェッシュはいつも肉だ。裏切らないね」
「お前を裏切ることってできるのか?」
少しばかり首を傾げてサンジープは言った。
「裏切ることはできるけど、それに驚くことはないよ」
サンジープの不思議な物言いにはすっかり慣れてきていた。最初は驚いたし、信じることすらしなかったが、次第に俺はサンジープをあらゆるテレビのニュースなんかより信じるようになった。
「このお店の肉は今日、美味しいよ」
サンジープがとあるレストランを指で示した。
発展していくドバイとは対をなす、オールド・ドバイのスーク。食べ歩きの露店が立ち並ぶその一角に、インド料理のレストランがあった。
俺は迷うことなくそこへ入店をする。サンジープが今日美味しいと言うのなら事実だろう。
『日系アメリカ人のルネス・モリタの建築もアンビルドが続きました。2023年イスラエル芸術センターはそのうちの1件ですが、この建築の膨大な設計図はブロックチェーンを経由し3千万ドルの売値がつけられました。これによりルネス・モリタは非・建築家の地位を獲得します。しかしルネス・モリタはドバイに高さ1100メートルを超える超高層ビル、ハージュ・ファナールを設計することで一躍有名となります』
そのレストランは砂嵐が入ってこないよう窓がしっかり閉まっている。外の喧騒すら聞こえない。聞こえるのは店員が使う聞き慣れたインドの言葉だ。俺たちと同じで出稼ぎに来ているのだろう。
小さなガネーシャ像が置かれ、ペルシャ絨毯柄のテーブルクロスが敷かれた所に俺たちは座った。
俺とサンジープはともに定番すぎるがチキン、シークカバブを注文した。飲み物はチャイが出た。酒が飲みたい所だが、ドバイで飲める場所と俺たち労働者は縁がない。
「この店は美味いな。今まで寄ったことなかったけど当たりだよ」
俺はチキンをカレーにつけながら言った。
「それは良かった。僕の能力がこうやって君の役に立つことは嬉しく思うよ」
「やっぱり能力なんだな。千里眼だっけ?」
「名前に意味はないよ……あっ」
サンジープの目から突如涙がこぼれはじめた。
俺は、ああまたか、と思った。
「今日はなんだ?」
「ハージュ・ファナール……いや、名称はまだだったね。僕たちが作る超高層ビル近くで190秒後に交通事故が起こる。9歳の女の子が車に轢かれ即死する。運転手は非を認めようとしないが、今まさにアル=アラビーヤ・ネットの動画を運転しながら見てる。非は運転手にあるね。公正な裁判で183日後にその事実は判明するんだけど――」
「もういい、わかった。しんどいだろう、サンジープ」
「……うん。でも可哀そうだ。彼女、ピアノの練習も上手くいっていたのに」
サンジープの目から涙はこぼれ続け止まりそうになかった。店員の視線は少しつらいが、俺はもうこういった場面を何度も見てきていたので慣れた。10分ぐらいするとサイレンの音が少し聞こえるような気がした。
サンジープはとにかく何でも見ることができる。俺の過去も、知らない人間の未来も、秒単位で把握した。俺の過去については俺以上に詳しく知っていた。
彼は全知と言えるのだろう。
そして、そういった能力とともに彼は人一倍涙もろかった。未来で失われる命だけでなく過去に失われた、例えばインドのサイクロンのことを思い出して泣くこともあった。
俺はそんなサンジープのことを最初は偽善者だと思っていたが、今はただ気の毒な友人だと思っている。
「ゴメンね。つい見えてしまうんだ」
「いいよ、泣く姿は見慣れた」
「見たくないものを見てしまうことってあるよね。あれと同じなんだ」
「干からびた動物の死骸とかそんな感じだな」
「あとはドバイにある高層ビルたち」
「お前、嫌いだよな、建築の仕事してるのに」
「資本主義の塊だからね。あれは金持ちの道楽の果てだよ」
『ルネス・モリタは師匠ザハ・ハディドを蝕んだものを資本主義と断定していました。それは早計な思想だと言われますが、彼はその先に人新世の存在を知ったため、過激な環境主義と破壊と建築によるハージュ・ファナールを設計することにしました。そのためルネス・モリタはハージュ・ファナールの完成形を、環境に優しい廃墟として設定しました』
「なあ、サンジープ、資本主義をそうやって嫌うのも未来に何かがあったりするのか?」
「うん。ただこれは一度壊れて、大勢死ぬ。5億人ぐらい」
俺はここでピタリと動きを止め、思考に入った。
普通の人との会話ならここは聞き流してもいい所だった。
サンジープは嘘をつかない。優しい彼は俺に嘘をつくことを嫌う。
だから本当に5億人は死ぬかもしれないと思う。
ただ本当に信じられないのは、女の子一人の死ですら涙を流すサンジープが5億人の死の重みに耐えるどころか、笑みを浮かべている。
「僕が笑みを浮かべているのはね」と、俺の心を読んだかのように、サンジープは言う。「30億人がその犠牲で幸せになるんだよ。そして未来に生まれる2000億人もその幸福を享受する。それに比べれば5億人の死は端数みたいなものだよ」
『ルネス・モリタはハージュ・ファナールの廃墟が形成される過程をテロとして計画し、出稼ぎで働くドバイ在住のインド人に依頼します。これは第三次世界大戦の一つのきっかけとなりました。ルネス・モリタは予期せぬこの戦争で死に、加えて過激な思想により建築史から抹消されますが、世界史には名を残します』





